民衆を武装ゲリラ化させていた中国
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ここ数年来、これまで「残虐」や「非道」としてしか描かれてこなかった日本軍の素顔について、公的言論機関では発表できないにしても、インターネットの世界では、中国の知識人たちによる発言が徐々に見られるようになってきました。 「小軍師」というペンネームを使った中国人研究者は次のように書いています。タイトルも、ずばり『真実の鬼子と真実の八路軍』です。
「1970年初頭、わたしは河北省の故里、保定へ戻った。保定一帯は、抗日戦争のとき、八路軍、ゲリラが最も活躍した地域であり、多くの抗日題材の作品は、ほとんどが保定一帯を舞台にしている。たとえば、『野火春風闘古城』『地道戦』『平原遊撃隊』『敵後の武工隊』『烈火金剛』『雁○(「令」編に「羽」)隊』『回民支隊』などなど。わたしの父は1938年に八路軍に入隊したが、最初数年間は、基本的に保定あたりで日本鬼子と戦ったり、やりとりをしたりした。 わたしは、故里で父と同年輩の親戚といろんな話を交わしたが、話の中で、当時の映画や話の中にはないものを聞くことができた。当時は話すことができなかったが、現在になってやっと皆さんに話すことができる。 真っ先に華北地区に侵入した日本鬼子は、日本軍の精鋭部隊だった。 それは戦闘力が強いばかりではなく、規律も厳格だった。老人たちの証言によると、数日後日本鬼子が村に入るというので、村人たちに緊張が走ったようだ。華北の漢奸団体(対日協力団体)である維持会の要求によって、村では数人の長老で維持会をつくったが、この維持会の役割は、すなわち鬼子の村への進入を『歓迎』するものだった。鬼子が村に来る当日、皆は家に閉じ篭もり、恐くて外に出られなかった。しかし、維持会の老人たちがおそるおそる張り紙で作った日章旗を持って、村の入口で鬼子たちを待っていた。お茶やケーキまで用意して鬼子を接待しようとした。昼頃、一個小分隊の十数人の鬼子が本当にやってきた。老人たちは、無表情で恐怖感にさらされながら、機械的に日章旗を揺らした。しかし、これらの鬼子たちは、老人たちの歓迎ぶりに何の反応もせず、直進して村の脱穀場で休憩しはじめた。彼らは、皆それぞれ携帯した軍用食品と飲料水を取り出して食べた。村で用意しておいたケーキやお茶には絶対に手を触れなかった。 好奇心に惹かれた子どもたちは大人たちの監視から逃れて、こっそりと脱穀場にやってきた。鬼子たちは、子どもに向って何か大声でしゃべった。すると子どもたちはすぐ驚いて逃げ出したが、またもや囲んできた。そこで鬼子たちは、食品を子どもたちに投げかけた。最初子どもたちは恐くて拾えなかったが、日本軍が同じものを食べているのを見て、食品を拾い集めた。 わたしの叔父は、当時飴をもらい、丸いステンレスの筒(軍用ハムの缶詰)を拾って家に帰ったが、大人が毒が入っているかもと言って捨ててしまったそうだ。よその子どもたちは飴と菓子を皆食べたが、大変おいしかったようだ。叔父はここまで言って、一言付け足した。数年後、われわれ子どもたちは成長して、多くはゲリラや八路軍に参加し、日本鬼子と戦ったと。 老人たちは、またこのような話をしてくれた。鬼子が最初来た頃、現地では何の反抗もなかったし、日本軍も百姓に対して何も野蛮な行為をしなかった。その後、情況は変化し、八路軍とゲリラ隊が積極的に動きはじめた。農民に抗日救国の道理を宣伝し、一致団結して小日本を撃退せよと要求した。 皆はこれで抗日道理について悟り、共産党と武力工作隊の指導の下、日本軍を襲撃しはじめた。そこで日本軍も報復を開始したのだ。当時の掟として、どこかの村で日本軍を殺したとすれば、その村は責任を持って、死を甘受しなければならなかった。 (中略) わたしの父の話によると、彼が所属する八路軍の連隊に散髪屋さんがいたが、彼は日本兵の散髪をしているときに散髪ナイフでこれを殺し、八路軍に参加したそうだ。(略) 老人たちの話によれば、日本軍が残忍だった原因は、そのころ以降の日本軍は日本人ではなく、朝鮮人と台湾人の軍人からなっていたためだという。これらの軍人は、現地では『二鬼子(アルキーズ)』と呼ばれた。『二鬼子』は本当の日本鬼子よりも悪人で、人を見るたびに殺し、掠奪したので、皆『二鬼子』を憎悪していた」 ※粗暴で残虐なのは朝鮮人のみである。
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朝鮮人が粗暴だった事は、他の資料や犯罪発生率
の高さからも裏付けが取れるが、台湾人が粗暴だった
とする資料はない。
2.南方戦線での例インドネシアで起きた民衆からの戦闘行為<転載許可済み>
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スマトラ島南東部のパレンバン市の南西部バリサン山脈の山すそに、デビンティンギ市があります。この市には終戦の年の日本とインドネシアの衝突事件の記念塔が立っています。この記念日の特集としてインドネシアタイムス(英字新聞)が、1976年春次のような記事を載せました。
終戦の年の12月13日、テビンティンギ市で女子供を含めた数千人のインドネシア人が虐殺された。殺したのはイギリス軍でもない。オランダ人でもない。日本軍だ。理由もなく突然多数の戦車を先頭に立てて乱入して殺戮した。
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この記事に対して、当時近衛師団渉外部のインドネシア係としてこの事件の収拾に当たった当時者である総山孝雄さんが、「一部終始を詳細に知っているが、これはまったくの虚報である」ということで、反論をしていきます。また同時のこの報道にはインドネシア側の歴史家も疑問を提示します。独立戦争の勇士で、戦後スマトラのメダン地区独立戦老兵会の会長であり、独立戦史を研究していたニップカムリ氏です。 それで、このインドネシアタイムスで、この報道をした責任者である編集者ユヌマ氏も参加して、このデビンティンギ事件の真相を究明する作業がすすめられてきました。その結果、その真相が次の書物に記されています。
北スマトラ州戦史編集検討会「北スマトラにおけるインドネシア独立戦史」
この本の中のB3項に、この事件の経過が詳しく述べられています。これが大変に長い文なわけで、全文掲げるわけにはいかず、私が勝手に以下要約します。
インドネシアでは戦後独立を宣言し、スマトラ島でもメダンにおいて独立が宣言がされていた。だが独立を認めないオランダ軍とそれを支援するイギリス軍が迫っており、インドネシア共和国軍やインドネシア青年党は、それらと戦うために武器を必要としており、降伏した日本軍の持っている武器をぜひ手に入れたいと考えていた。こうした情勢下で、1945年12月13日にテビンティンギ事件が発生したわけである。 1945年の12月初め英軍司令官の命により、中島司政長官、メダン市長、北スマトラ宗務部長、鉄道部長と薄金文化部長等が家族同伴で列車に乗ってキサラン近くの農園に向かった。テビンティンギのプシンド(都市地域武装社会主義青年党の略称)の指導者は、テビンティンギ駅でその汽車を止めて武器を奪う計画を立てた。12月11日、汽車が到着すると、武装した青年たちが、その列車を阻止した。 武器を渡すように要求したが、日本の指揮官はこれを拒否した。だが長時間の対峙のあと、15時に日本軍は降伏し、15時30分すべての武器が引き渡された。日本の将校4人を人質としたが、青年たちはその一人深尾大尉を殺してしまった。 この日の夕方、宮川中尉により警備されていたグヌンパメラの食料倉庫が青年たちに取り囲まれた。彼らは見知らぬ他所者に指導されていた。青年たちが迫ってくるので、宮川中尉はバヒランの連隊長に電話して、暴徒に対する射撃の許可を要請した。電話で沢村少将は「話せば判る。われわれの兄弟であるインドネシア人を殺してはならん。話し合いで解決せよ」と答えた。この二人の会話がまだ終わらない前に、青年たちは電話線を切断してしまった。宮川中尉は部下に、武器を下に置くように命令した。青年たちは武器を取り上げて、蛮刀と槍で、一斉に宮川隊に襲いかかり、宮川中尉以外の日本人をすべて殺した、宮川中尉は頭をたたきわられたが、瀕死の状態で倒れていたところを翌朝、農民に助けられた。 12月12日午前9時、前日の列車阻止での指導していたアミルタアトナスティオン(テビンティンギのプシンドの長)は、ほかの指導者とともに、バラヒンの沢村少将に会いに来た。 アミルタアトティオンは 「所有する武器全部を渡して貰いたい。さもないと2千人のインドネシアの青年たちは、このバラックを攻撃し、皆殺しにします」 これを沢村少将の部下中村副官は、拒否して、昨日のテビンティンギ駅での彼らの略奪に抗議し、その列車の深尾大尉ら40人の兵士がどうなったかを尋ねた。アミルタアトは、もう殺してしまっているのだから答えない。 ここで日本軍もテビンティンギの様子を探ると、昨夜グヌンパメラの農園で日本人16人が殺害されたことを知るにいたり、さらに町の日本人全てが殺されたという噂も得てしまった。 無線は通じず、電話線は切られており、第三大隊の妹尾孝泰少佐は、連帯本部になにか異変がおきたのではと心配し、全兵士を非常呼集して、連帯本部まで20キロを駆け抜けた。12月13日朝、彼らは連帯本部に息を切らして到着した。 沢村少将は、自らの命令に従ったために抵抗することもできずに殺されて行った部下のことを思い、今この報復を行わないと、また無限に日本人が殺戮されていくことを深く怖れ、妹尾少佐に、テビンティンギのプシンドに対する報復攻撃の準備を命令した。師団長の許可を仰ぐため無線により電報を打った。驚いた師団では、攻撃をやめさせるために先任参謀の室本中佐を急いで派遣した。 現地にきて詳しく調べてみると、警告のために報復攻撃が必要であるとの結論に達し、攻撃が許可された。午後2時、数個の小部隊を町から出る4つの出口に伏せた後、歩兵1個大隊が前面に2台、背後に1台の戦車を伴って、南の方向から町の中に進撃した。大砲もあったが一般市民が犠牲になるのを防ぐために使用しなかった。 攻撃はこのように用心深く行われたが、やはり錯誤による犠牲は避けられなかった。日本軍は果敢に攻撃し、至るところで女子供までが犠牲になった。 (これは、あくまでインドネシア側の記録であるわけです。「至るところで女子供まで」ということは、「事実ではない」と総山氏は言っています。だが、日本軍が何の理由もなく、攻撃したのではないことは、こうして現代のインドネシアが認めているわけです)。 プシンドは簡単に敗北した。過激な指導をした者が、ジャワから来た煽動者だったことを市民から伝えられたプシンドは一斉に町から逃げ出してしまった。 やがて、テビンティンギを奪回するために青年たちが、戻ってきて日本軍と戦った。戦いは17日まで続き、多くのインドネシア青年が亡くなった。 12月14日、日本軍渉外部の総山孝雄はインドネシアの総督代理マハラジャソアンクポンと会い、事態の収拾を協議した。この不幸な事件で利益を得るのは、オランダのみだということで意見の一致を見た。そして、事件をすぐ終わらせるために、全党派の会合の必要であるということになり、まずは、インドネシア政府の代表と、諸党派の代表と、日本軍の代表としての総山が、事態収拾のためにテビンティンギへ行くこととなった。 だが、日本軍の沢村少将は、彼の無抵抗命令を忠実に守って殺されていった部下に対してプシンドがやった残忍な処置を許せなかったので、この代表たちは沢村に何も言うことができなかった。そこで総山が夜半単独で、沢村と会い説得した。 「閣下には報復せねばならぬ理由がある事を私は判っています。日本の兵士に対する殺戮を憎むことは私も閣下と同じです。しかしながら、もし閣下がこの報復を続けて独立運動を妨げるなら、インドネシア国民はこの事件が起こった本当の理由を自国民には報道しないで、閣下が一方的に残酷な殺戮を行ったという報道を流すでありましょう。そうなったら、彼らはいつまでもわれわれ日本人を、恨むことになります。わが民族の悠久の大義に基づいて今後の永い友好関係のために、閣下の怒りを静めて下さい。 インドネシア青年たちがこれ以上日本人を殺さなければ、日本軍は報復を止めるという事を布告してください。われわれは心の中ではインドネシアを愛し続けているけれども、敗戦により禁じられているわれわれは、公然と独立を助ける事はできない。われわれはインドネシアの独立を助けたいのだが、必死に我慢しているのだという事を告げて下さい。われわれは、インドネシア人がこれ以上日本人を殺さない限り、インドネシア人を攻撃したり、インドネシアの独立を妨げる事は決してない事を、布告してください」 こうした総山の必死の言葉に、沢村少将は、これを納得した。12月17日、東スマトラ代表の命令として、トンクハファスはテビンティンギの青年党に戦闘の停止を命令した。 このまことに残念な事件は、実際は度を越えた革命精神により起こったのであって、その結果却って共和国の大切な国民保安隊や青年党が大打撃を受け、革命精神の性急さのために却って革命が打撃を受けてしまったのである。 大戦に敗れ降伏した後にも、日本軍はインドネシアの独立戦争に同情していた。にも拘わらず、インドネシアの青年の一部により残酷な方法で仲間が殺されると、彼らは我慢できなかったのである。 メダンの共和国の指導者たちは、当初この事件をそれほど重大視していなかったが、12月18日になって、その全容が判ると、大きなショックを受けてしまった。 共和国政府は、政府の同意を求める事なく、勝手に行動した共和国の青年たちを非難した。また東スマトラインドネシア国営通信社は、テビンティンギの青年たちは、強盗の刑事犯であるとの声明をだした。 日本軍はインドネシア人の敵ではないから、事件が起ってもインドネシア人との争いの激化を望まないという事を、われわれは確信せねばならない。この日本によって与えられた好意を勝手な行動で裏切らないように、東スマトラの全インドネシア人は肝に銘しなければならない。
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最後に、このインドネシア方面軍の司令官であった今村均の収容所でのある エピソードを書いて、この文を終わります。
「将軍がここにはいられたので、日本人みな力にしているとのことですね」 「九十九人匹の羊は祖国へ帰し得ましたが、ここに残されている迷える一匹は、どうしても私がみまもる責任があるのです」 「あなたは羊を飼っていたのですか。どこで?」 けげんな顔でたずねるマッピン(少佐牧師)に、片山が「マタイ伝第十八章の言葉をひかれたのです」と説明した。 「ああ、そうでしたか」マッピンが明るく笑った。「将軍は聖書を読んでいるのですか」 「十八歳まではよく協会にいってました。聖書は今も手にしています」 「そうですか。それで今も、キリスト教を信仰しているのですか」 「仏教と申しておきましょう。一般の仏教とは少し違いますが……」 「それは何という信仰ですか」 「法然、親鸞という仏教の聖者が説いた教えで、イエスの説かれたものと同じ愛と救いの信仰です」 (角田房子「責任ラバウルの将軍今村均」)
今村均は、オランダ軍に戦犯とされた部下たちが無罪であるということ証明するために、自ら収容所に入ります。そのときのラバウル収容所での豪州軍少佐マッピンとの会話です。この今村均の思いが、先に書いた総山孝雄氏の心と同じであると思います。昔の戦友たちが、なんらいわれのないことで罪におとされ貶されることには、敢然と正しいことを主張しているのだと思います。迷える1匹の羊であろうとも、それを探し、それを救い出すことは、絶対にやらねばならないのです。私もまったく同じ気持なのです。(1997.12.28)
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南方アジア各地でも暗躍していた共産系ゲリラ前野徹著 「わが愛する孫たちに伝えたい 歴史の真実」 経済界 2000年 |
後に上院議員となったノンティック氏は、日本軍のマレー人虐殺を調査に来た現地日本大使館職員と日本人教師にこう答えたそうです。 「日本軍はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして、日本の将兵も血を流しました」 ノンティック氏は、自分たちの歴史・伝統を正しく語りつがない日本人に対して、一編の詩をメッセージとして残しています。
かつて 日本人は 清らかで美しかった かつて 日本人は 親切で心豊かだった アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた
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*共産ゲリラのみならず、連合軍も、日本に奪われた
植民地国の住人を扇動しゲリラ化させては日本軍と
戦わせていた。
これが民衆を戦闘に巻き込む悲劇を生み
出したのである。
規律を乱した朝鮮人帝国軍最大の愚行 日本は、1920年の朝鮮併合以前より、朝鮮人が日本の士官学校に入る事を
許可していた。
その為、第二次大戦時の日本軍には早くから、朝鮮人将校が多数在籍していた。
また、日本軍は、日中戦争が始まる以前からも、軍属には多くの朝鮮人を
雇用していた。
日中戦争が勃発すると、朝鮮に志願制度が敷かれるようになり、朝鮮人は正規兵
としても日本軍に参加するようになった。
これが一番の大きな問題を引き起こしていた。
インドネシアで現地人を虐待していた朝鮮人憲兵「ニッポンは誤解されている」 日本教文社 1988 年 アルフレッド・スムラー著(フランスの雑誌パリマッチ特派員) |
別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりは毛頭ないが、占領地域で最も嫌われたのは、このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったことに注意しておかなければならない。その多くは憲兵隊に属し、のち戦犯に指定された。 たとえば戦後十年たってインドネシアで現地民の証人たちが私に話してくれたところによると、彼らは当時これらの警察官から自分たちを保護してくれた点では日本の陸、海軍に感謝しているそうだ。
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フィリピンのルソン中部山岳地帯を旅行した医師が、各地で現地人から聞いた
「朝鮮人が一番残酷だった」という証言月刊誌「DATUMS」1995 年10 号 キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景 色平 哲郎 内科医 http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html |
山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。 韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その日も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない
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鍼灸医の体験した日本軍の香港占領「日本軍は香港で何をしたか」 著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年 36~37頁 |
九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。 彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。 当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。製作所の経営者は避難してきた彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。 最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。ところがある日、突然五、六人の‘獣兵‘が現れ、麻雀をしていた四人の女優を輪姦したという。 前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。 当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。 香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。 このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。 当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。
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142頁 |
(日本軍占領下の香港では) アヘン販売や売春市場は朝鮮人が中心となって 取り仕切っていた。
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注意)上記の「日本軍は香港で何をしたのか」の全体の内容は、日本軍の蛮行を
告発したもの。
しかし、その内容たるや、
朝鮮人将校が存在していたにも関わらず、朝鮮人は
日本軍では二等兵以下の地位に処されていたとか、日本の奴隷化政策のせいで
朝鮮人のほとんどは読み書きが出来なかったとか
(終戦直後の朝鮮人の就学率は61%。
参考)「『韓国併合』とは何だったのか」
中村粲著 日本政策研究センター 1997)、250万人の朝鮮人が強制徴用されて
いたとか、ウソだらけである。
『古野直也著 朝鮮軍司令部 1904/1945 国書刊行会』p.220 |
昭和十七年の夏、マレー半島とシンガポールからイギリス人捕虜、将校以下千人が到着し、京城及び仁川に収容所を設置する。日本はジェネーブ条約の捕虜に関する事項については調印していないが、条約の精神は尊重する旨公表していた。下士官兵は仁川で港の貨物荷上げ労働につき、将校は京城で労働はさせない方針であった。マレー方面の将官級は台湾南部に収容されていた。 朝鮮人が李朝末期以後、神に近い特権を持った白人を見た歴史をもっていたがここに来て、心理的にも白人崇拝の観念は消えたらしい。消えたのはいいのだが、困ったことも起きて戦後まで尾を引いている。 東南アジアから朝鮮まで捕虜収容所の警備員として朝鮮人3500人が従事していた。弱者に残虐性を発揮する民族性ゆえか、軽蔑ついでに相当な白人苛めを隠れてやっていたらしい。 敗戦後、個人的怨みで戦犯に問われ、死刑その他重刑を受けた例が少なくない。 白人こそ報復と復讐の大家だったのだから
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『古野直也著 朝鮮軍司令部 1904/1945 国書刊行会』p.132-133 |
昔から日本人は語学が拙ない。地理・世情に不案内で朝鮮語がわからないから、どうしても朝鮮人の警官や憲兵補助員に頼ることになる。ところがこれらの連中に不良が多く、住民を脅して私腹を肥すやら、女に手を出すやらの悪徳ぶりで、日本側はその取締りに忙しかったという。(略) 日中戦争中でも中国語が堪能な日本軍人はいないから、中隊単位で朝鮮人の通訳を雇う事になるのだが、この通訳は中国人を生かすも殺すも自由自在に裁量できるから蓄財に励む悪者が多く、日本軍が中国民衆に怨まれる大きな原因となった。 通訳の中には、日本人の名前の標札を持ち歩いて中国人の門に打ち付けて豪邸を占拠する者がいたし、スパイだといって逮捕し、釈放するといって身代金を取ったりして連隊の中の高額所得者は朝鮮人通訳だった例が多い。 中には雇いもしないのに軍隊の後方をのこのことついて歩く偽通訳もいた。便利だからと使用してみると、いつの間にか日本軍の制服を貰って住み着いてしまうのだった。
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捕虜収容所で、虐待された少年の自伝レオ・ゲレインセ自伝 「日本軍強制収容所 心の旅」 難波収、トレナール藤木きよ、ボム三上なをみ訳 手帳舎刊 40~45頁 |
ことが起こったのは、そこでの初めの頃だったと思うが、正確な日時は覚えていない。 とにかく、点呼のときに誰かが冗談を言った。当時私の脳の働きはいくらか鈍かったので、その冗談の落ちが私に判ったのは、やや間をおいてからだった。時や遅し。私がくすくす笑い始めたのは、ちょうど私たちの目の前に一人の日本人が立ったときだった。彼は「笑ったのは誰だ」と怒鳴って訊いた。このヤップはまさに悪魔のような奴だった。日本の現人神天皇のために直立しているときに笑うとは神聖の冒涜である、と彼は烈火の如く怒った。 私は、もうこれでやられてしまうと観念した。恐怖に震えながらも、私は名乗り出なければならぬと思った。さもなくば、ほかの笑わなかったかも知れない人々が犠牲者となるだろう。私が名乗って前に引き出されたとき、私は目がくらくらして、周囲のすべてが回り始めるのを感じた。恐怖のために堪え難くなった私の周りを、さまざまな色がぐるぐると、しかもだんだん急速に回転するのだ。ヤップが私を殴り始めたのを記憶に残っている最後の情景として、私は大きな暗い穴に落ち込んでしまった。 (中略) 私たちは、肉体的に傷つけられるだけではなく、精神的にも厳しい忍従を強要された。例えば、体がいくらか回復したとき、私は、何人かの捕らわれ仲間が拷問されるのを視るように強要された。一度の如きは、誰かが無茶苦茶に殴られるのを見せられた。殴打の終わったとき、その人の顔にはもはや生気は見られなかった。また別の機会には、一人の成年男子が四方から両手両脚を烈しく引っ張られ苦痛に泣き叫ぶ有様を、私は正視しなければならなかった。その後、この二人が生き延びたかどうか、私は知らない。
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同書の注釈 |
「一人の日本人」と「日本警備兵」は同一人物。この男はマツザワ ゼンユー という名を持つ朝鮮人の軍属らしい。彼は些細なことでもすぐホッケースティックで、シャツを剥ぎ取った上半身や耳を打った。オランダ人の間では「ホッケースティック」のあだ名で呼ばれていた。
これは多分M.W.デ・ヘールという五十二歳のオランダ人である。この男性は食べ物を「密輸」したということで一九四五年五月、キムラ セイコンという朝鮮人軍属から太い棒で全身を五十回ほど殴られ、肋骨が何本か折れ、八日間独房に入れられた。しかもはじめの三日間は食物も全然与えられなかった。恐らくはこの虐待がもとで、デ・ヘールは六月十六日にカンプの病院で死亡した。このキムラは「殴り屋ヤン」と仇名されるほどカンプ収容者に対して多くの残虐行為を働き、裁判の結果一九四六年十月十一日に死刑となった。日本兵の中で、カドワキ サカエ軍曹だけは例外で、唯一のよき日本人であったとバンコン収容所の記録に特記されている由。
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