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秩序正しい日本人

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秩序正しい日本人


1877 年~1880 年にかけて東京大学で生物学を教えたアメリカの動物学者エドワード・S・モースは、日本での体験を次のように記している。

モース著 「日本その日その日3」 石川欣一翻訳 平凡社 1971 年

「私が帰るまで金と時計をあずかってくれぬか」と亭主にたのんだら、亭主は快く承知した。
召使が一人、ふたの無い浅い塗り盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品をいれるものだといった。で、それ等を彼女が出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いたまま出て行った。私はいうまでもないが、彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。しかし召使は帰ってこない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかとたずねた。彼女はここに置いてもいいのですと答える。
私は主人を呼んだ。彼もまたここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も他の品物も、持っていないのであるといった。
未だかつて日本中のいかなる襖にも、錠も鍵もかんぬきも見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験をあえてしてみようと決心した。恐らく私の留守中に何回か客が入るであろうし、また家中の召使でも投宿客でも、楽々と入り得るこの部屋のふたの無い盆に、銀貨と紙幣とで八〇ドル、それに金時計とを入れたものを残して私は出発した。
私達は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰ってみると時計はいうに及ばず、小銭の一セントにいたるまで、私が残して行った時と全く同様にふたの無い盆に載っていた。



モース著 「日本その日その日1」 石川欣一翻訳 平凡社 1970年

人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って来た。



日本は今も昔も、世界で最も犯罪が少ない国である
先進五か国と比較しても、その低さは突出している。
隣国の韓国と比較しても、実に「殺人」「強姦」
「強盗」は一桁近くも低い。



法務省白書等データベース(犯罪白書 平成14年)
http://hakusyo1.moj.go.jp/



UNODC - United Nations Office on Drugs and Crime
http://www.unodc.org/unodc/index.html
2000年度の犯罪被害認知数と、人口10万人中の被害発生認知率(殺人件数は、故意・非故意を含む)
殺 人2000年度強 姦2000年度強 盗2000年度
韓国46929.92韓国613912.98韓国45249.56
日本11480.9日本22601.78日本51734.07

そして、かつての日本軍もこの国民性を反映しており、実は日清戦争
義和団事件・日露戦争・第一次大戦における日本軍の秩序正しさは突出して
いたのである。






秩序正しかった日本軍


1.日清戦争の時の日本軍
    (1894年7月~1895年4月)



1894年、朝鮮の独立を巡り、日本と清国の間で戦争が勃発する。
この時、朝鮮に派兵された日本軍の秩序正しさは、初めて世界の人々の目
に触れることとなった。


イザベラ・バード


(1831/10/15~1904/10/7)
世界的に有名な旅行家。
日清戦争中、朝鮮半島で日本軍と清軍の規律の違いを目撃する
イザベラ・バード著書『三十年前の朝鮮』工藤重雄訳・1925年刊

彼女がみた清軍
「宣戦布告後は状況がますます険悪となり、制海権を日本が掌握した結果、朝鮮へ出征する清軍はみな、満州を通過せざるをえなくなり、吉林をはじめとする北部諸都市から募集された。規律を欠いた軍隊が、日に千人の割合をもって奉天に流れ込んだ。その軍隊たるや左右民家の品物を手当たり次第に略奪し、宿屋の亭主をブッ叩いたうえに無銭宿泊の乱暴、キリスト教礼拝堂を無暗に打ち壊すなど狼藉を働いた」

彼女がみた日本軍
「軍に規律があり、仕事に秩序があり、各人各々その目的を了解し、粛然として義務に服し、厳乎として警戒に任じ、いささかも倨傲不遜の振る舞いがなく、まことに見上げた日本軍であった」



朝鮮に駐留する日本軍の姿を目撃したスウェーデン人ジャーナリスト
アーソン・グレブスト著書 
「悲劇の朝鮮」高演義・河在龍訳 白帝社 1989年

ソウルだけでも、現在数千の日本軍兵士が城内と郭外に駐屯していますが、彼らへの抗議があったためしがありません。彼らの規律は他の範となるべきものです。






日清戦争を観戦したフランスの国際法学者ポール・フォーシーユが、有賀長雄の名著「日清戦役国際法論」に寄せた言葉
「日清戦役国際法論」 東京偕行社 1911年(パリにてフランス語で刊行後、後に本人の手で、日本で翻訳出版)

「日本は独り内部の法制に於いて世界最文明国の班列に達したるに非ず。国際法の範囲に於いても亦同然たり。経験は日本政府が能く其の採択する所の文明の原則を実行するに堪うるを表示せり。すなわち日本は清国に対する一八九四年の戦争に於いてこの事を証明したり。この戦役に於いて日本は敵の万国公法を無視せしに拘らず自ら之を尊敬したり。日本の軍隊は至仁至愛の思想を体し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、敵の病傷者を見ては未だかつて救護を拒まざりき。日本は尚未だ一八六八年十二月十一日のセントピータスブルグ宣言に加盟せずと雖も、無用の苦痛を醸すべき兵器を使用することを避け、又敢えて敵抗せざる住民の身体財産を保護することに頗る注意を加えたり。日本はいずれの他の国民も未だかつて為さざる所を為せり。其の仁愛主義を行うに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、無代価にて之を給養するに至れり。兵馬倉皇の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は挙げて行わざるなし。見るべし日本軍隊の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを。」

現代語訳

日本は、文明人に相応しい国法を持つようになっただけではない。国際法においても、既に文明人である事を証明した。即ち、日清戦争では、清軍は国際法を無視したが、日本軍は尊重した。日本軍は慈悲を以って捕虜を待遇し、敵の負傷者を見つけては救護を拒まなかった。日本は未だに1868年12月11日のセントピータスブルグ宣言(害敵手段を制限する取り決め)に加盟していないが、無用の苦痛を与える兵器の使用を避けた。また、敵対しない住民の生命財産を保護する事にもすこぶる注意を払うなど、未だどこの国もしなかった事をしてみせた。その仁政を熱心に行う余り、遂に敵地住民の租税を免じ、自給自足で済ませてしまった。慌しい兵士の間ですら人命を重んじることは極めて厚く、人々を救済する策を惜しむことはなかった。見るがいい。日本軍の通過する所に、必ず衛生法を守らせる為の規則が布告されている事を。

*衛生法=これは現在の「労働安全衛生法」や「食品衛生法」の事ではなく
公衆衛生を意味していると思われる。
(フランスでは、1902年2月15~19日に「公衆衛生 sante publique- の保護に関
する法律」(公衆衛生法)が制定されている)





黄 文雄
(1938 年生まれ)
台湾高雄州岡山郡(現在の高雄県岡山鎮)出身の評論家。
1964 年に留学のため来日。
拓殖大学日本文化研究所客員教授。台湾独立建国連盟日本
本部委員長。維新政党・新風講師。
1994 年に、台湾ペングラフ賞を受賞。
黄文雄 「大東亜共栄圏の精神」 光文社 1995年 173~174頁

日本軍上陸後の二週間の実録については『淡水新政記』という報告書がある。同報告書を記した福島安正大将は、かつて陸軍少佐としてドイツ公使館附武官になったことがある。彼は帰任にあたり、ベルリンからウラジオストクまで一万六千キロを四百日かけて、単騎で突破し、世界の話題にもなっている。後に男爵、陸軍大将にまでなった福島安正は、明治二十五年五月に、大佐として陸軍省から台湾受領に派遣されたのだった。
同報告書によると、敗走した清軍兵士は、一人につき二円五銭と米二石をもたせて、淡水から船で送り出したとか、地方の村長を集めて日本の政策を説明し、日当として一人三円渡すと、みな躍り上がって喜んだとか、当時の台湾接収について克明に書いている。そういう思いやりの行政は中国社会には絶対、ありえないことだ。日本は台湾を領有した時期、二年間の猶予期間をもって、台湾の島民に国籍選択の自由を与えたが、このようなことも考えられないことだった。



日清戦争の際、旅順で起きたとされる虐殺事件を調べたベルギー公使の調査
磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著「日本・ベルギー関係史」 白水社 1989年
べルギー公使アルべ-ル・ダネタンが、ベルギーにあてた報告書

「旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行為は、新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によって多分に誇張されたものであった。私はそこに居合わせたフランス武官ラブリ子爵に会ったが、彼は私にこう断言した。殺された者は軍服を脱いだ兵士たちであり、婦女子が殺されたというのは真実ではないと。旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」

*ニューヨーク・ワールド紙は1894.12.20付の記事で犠牲者2000名と報道。
タイムズ紙は1894.11.28付の記事で犠牲者200名と報道。
一方、中国政府の二万弱という主張は信用に値しない。






2.義和団事件の時の日本軍
     (1900年6月~1901年9月)


1900年、清国において、排外運動を繰り返していた秘密結社・義和団が、欧米
列強に宣戦布告。
外国公使館区域を包囲し、これに清軍までもが便乗する。
しかし、篭城を余儀なくされた外国公使館区域を救助すべく、日露英仏米独伊墺
の8カ国の連合軍が北京に進軍し、わずか、二ヵ月弱で鎮圧してしまう。
この事件後、北京を占領した連合軍の中で、日本軍が最も秩序正しかった。


略奪を厳禁していた日本軍

秋山好古
(1859年2月9日~1930年11月4日)
伊予松山出身の元武士。父は松山藩士。
近衛師団長・陸軍大将・陸軍教育総監を歴任。
義和団事件では、第五師団の兵站監として出征し、乱の平定後に清国駐屯軍司令官として勤務。
義和団事件において、略奪を硬く禁じた秋山好古大佐

「本国に持ち帰りを許可するものは、戦闘により入手した敵の武器・銃・刀・槍・弓のみである。これは子孫に武勇を伝える戦争の記念品であるからで、他のものは一切禁止する」
引用元)黄文雄 大東亜戦争の精神 光文社 1995年 119頁



世界から絶賛された日本軍の規律
カナダ人記者がみた日本軍の秩序正しさ
F.A.マッケンジー著 「朝鮮の悲劇」 渡辺学訳 平凡社 2003

ロシアが極東で、このように恐怖と反発をひき起こすような情勢をつくって世界に自分を見せびらかしていたとき、他方で日本はわれわれにその最善の姿を提示した。一九〇〇年、中国の義和団事件のとき、連合軍の一部をなしていた日本軍は、その有能と克己とを示して全世界を驚嘆とさせた。日本軍の勇敢さ、その美事な組織、およびその規律は各国の老練な軍事専門家や報道員たちによって賞賛された。



黄文雄 「捏造された日本史」 日本文芸社 1997年 44~45頁

義和団による社会の混乱が起きていた最中、一人の日本の軍人が北京駐在武官として滞在していた。彼の名は柴五郎、維新後の日本史を飾る代表的な明治の軍人である。
義和団事件はやがて満州にまで飛び火し、ロシア人が殺傷される事件も起きた。ロシアはそれを口実に満州占領へと乗り出した。
ロシア軍は怒涛のように満州に流れ込むと、街を焼き、略奪し、虐殺し、市民の生活を脅かした。清国北方の治安は大きく乱れた。このとき何よりも怖いのはロシア兵はもとより、清軍の敗残兵だった。兵士が市民から略奪するのは中国伝統の戦争文化とも呼ぶべき慣習で、兵隊とは市民に乱暴狼藉をはたらくものということが常識となっていた。
ところが北京に入城した日本軍はその常識を破ったのである。軍紀は厳しく、末端の兵士にいたるまで非行をすることがなかった。この様子は北京市民にとって有史以来初めて目にする光景だった。これは噂となってたちまち北京市民に知られ市民は布や紙に「日本順民」と書いて日本軍を歓迎したのである。

柴五郎は、北京各国の領事館区の二ヵ月におよぶ篭城中、攻防戦の指揮官として各国から信用を得て、北京陥落後は軍事衛門長官(駐留軍司令官)として治安を担当し、きびしく取り締まりを行ない、暴行や略奪をはたらいた連合軍兵士は現行犯で捕らえると、それぞれの軍司令部にどんどんつきだした。
日本軍全体は、もっとも規律が正しいことで評判を得て、その占領地の北城はすぐに治安を回復し、商店も営業を再開したという。
参謀本部編の『明治33年清国事変史』にも、「他国の軍の占領区域は荒涼、寂莫たるに関わらず、ひとり我が占領区域内は人心安堵し、ところどころに市場開設し、売買日に盛んに至れり」と記録している。
それに引き替え、ロシア軍に占領された区域は悲劇であった。その他の住民たちは続々と日本占領区に逃げ込み、保護を求めた。当時の北京市長はたまりかね、マクドナルド英公使に苦情を訴え、ロシア軍管区を日本軍管区に替えてほしいと嘆願したほどだった。


柴五郎(1860年6月21日~1945年12月13日)

会津若松出身の元武士。父は会津藩士。
軍事参議官・台湾軍司令官・東京衛戍総督・第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る。
義和団事件では、篭城する公使館区域内で実質上の指揮を取り、その名声を世界に轟かせる。






3.日露戦争の時の日本軍
    (1904年2月~1905年9月)



義和団事件後、ロシアは満州に大軍を送り込み、駐留を続けた。ついで
三国干渉によって日本が手放した遼東半島を1898年に租借すると、旅順に
旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置。
朝鮮半島への進出をうかがい始める。
1904年2月、安全保障上の理由からロシアの南下を拒む日本との間に、遂に
戦争が勃発する。
日本は、この戦いにおいて陸と海で勝利する。


1898年12月から1907年3月まで(途中帰国時期あり)滞在した英国人旅行家
が見た日本軍人と日本軍の姿

リチャード・ゴードン スミス著 「ゴードン・スミスのニッポン仰天日記」
荒俣宏、大橋悦子翻訳 小学館 1993年

11月17日 木曜日(261頁)
 非常に早起きして、午前八時には私は竹やぶを歩きまわっていた。そこで、すでに八里(16マイル)歩いてきたという二隊のオオサカの歩兵隊に出会った。彼らは武器を積み重ね、休憩していた。しばらく休んだあと、彼らは敵国内を進軍する訓練として戦闘の演習をつづけながら、オオサカにもどる予定だった。彼らはほとんど例外なく、たくましく頑丈に見えた。兵士間の秩序は見事に整っており、将校たちはそれを維持するのにほとんど何もしなくてよい。あらゆる点でうらやましい限りだ。

10月23日 日曜日(266~267頁)

 兵庫県知事の服部氏が昼食にやってきた。
 彼の息子は、気の毒な事に片目を失っていた。若い将校なのに本当に哀れだ。知事はどちらの目なのか知らなかった。息子の唯一の願いは、自分の事で騒ぎ立てないで欲しいということだ。
 こうした日本人すべてに就いて言える事だが、戦いの最中に勇敢であるというだけでなく、慎ましく、内気ですらあり、有名になるのを嫌うという点で、彼らは真の英雄である



ロシア人捕虜を厚遇した日本
記念艦「三笠」公式ホームページ|神奈川県横須賀市
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/index.html
記念艦「三笠」|日露戦争における武士道
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/epi/matsuyama.html

明治38年、日露戦争が始まると、松山俘虜(ふりょ=捕虜)収容所には全国で最も多い延べ6.000人余りのロシア兵俘虜が収容されました。(収容所は全国で29ヵ所あった)
俘虜といっても外出自由であったほか、将校や妻帯者は一般家屋に住むことも許され、市民との交流も親密であったと言われています。そして、病気や負傷で亡くなった98人の将兵のために立派な墓地が作られました。
墓地は今も保存会や婦人会、近くの市立勝山中学校の生徒達が清掃奉仕を続け、供物や花の絶えることがありません。
その98柱の石碑の中に、とりわけ大きなボイスマン大佐の墓がありますが、彼は旅順艦隊の戦艦ペレスベートの艦長で、海戦で負傷し捕虜になりました。日本側は、大佐という階級と負傷兵であることを考慮して、ロシアに 送還しようとしたが「兵卒と共にありたい」と拒み、それなら妻子を呼び寄せよ、と勧めましたがこれも謝辞し、収容されて八ヵ月後、胃がんで他界しました。享年50歳。
当時の記録によると「ロシア人の武士道」に感動した会葬者の列が数町に及んだといわれており、今もなお地元の人々の手でロシア人墓地が清められ、供養の花が絶えないのは彼の存在が大きいからだと思われます。

当時松山では、県が県民に対し「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して敗れた心情を汲み取って侮辱を与えるような行為は厳に慎め」と何度も訓告を発しました。
当時の日本人には武士の気概が色濃く残っており、かつそれに松山人の持つ“お接待の心”が加わってこの美談が生まれたものと思われます。






4.第一次大戦の日本軍(1914年~1918年)


1914年6月28日にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツが暗殺された
サラエボ事件を契機に、欧州を中心とした世界大戦が勃発する。
1914年 8月23日、日本は日英同盟に従い、連合国側に参戦。敵国ドイツに宣戦
布告し、極東のドイツ軍の拠点を攻略する。


ムスターラーゲル(模範収容所)と呼ばれた日本の捕虜収容所
鳴門市ドイツ館
http://www.city.naruto.tokushima.jp/germanhouse/
ドイツ館とは
http://www.city.naruto.tokushima.jp/germanhouse/about.html

大正3年、第一次世界大戦に参戦した日本は、ドイツの租借地であった青島を攻撃し、約4,700人のドイツ兵を俘虜として日本各地の収容所に送りました。このうち四国の徳島、丸亀、松山にいた約1,000人が大正6(1917)年から同9(1920)年までのほぼ3年間を、鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)の板東俘虜収容所で過ごすことになりました。
この収容所では、松江豊寿所長をはじめとする管理スタッフが、俘虜たちの人権を尊重し、できるかぎり自主的な運営をみとめたため、自由で快適な収容所生活を楽しむことができました。彼らの活動は驚異的で、所内に80軒余りの商店街、レストラン、印刷所、図書館、音楽堂、科学実験室、公園、別荘群などの施設を造るほか、健康保険組合、郵便局などの互助的活動も行いました。また、学習、講演、スポーツ、音楽、演劇など文化活動も盛んで、とりわけ音楽活動では、ベートーベンの「交響曲第九番」の国内初演をはじめ、複数のオーケストラや様々な楽団が100回を超える演奏活動を行いました。
所外においても、俘虜製作展覧会や各地での演劇、演奏会活動など、ドイツ文化を広く市民に紹介しています。
その他、 牧畜、製パン、洋菓子、西洋野菜栽培、建築、スポーツなど様々な技術をもたらし、なかには現在もそれが受け継がれているものもあります。これらのイベントや技術指導によって、俘虜たちは地域社会に受け入れられ、板東の町やその周辺では、地元の人々と日常的に交歓する風景が当たり前のようになりました。







5.日本軍の規律は、日本人の国民性そのもの


日本は世界で最も治安の良い国である。
特に戦前は、窃盗事件が異常に少なく、日本を訪れた外国人たちを驚かせていた。
公共マナーもアジア一である。日本人がキッチリと順番を守って電車に乗車し
歩行者が信号をキッチリと守り、ドライバーがキッチリと交通ルールを守って運転
している姿を見ただけで、中国人や韓国人は驚愕するという(韓国人はウィンカー
すら出さない)。
日本で最もマナーが悪い関西人の姿ですら、彼らには秩序正しく映るというのだ。
また、隣の韓国は、些細な事でも頻繁に喧嘩を起こし、成人男性同士でも殴り
合いの喧嘩をする事で知られる。
だが、日本では、成人男性同士の殴り合いなど滅多に見られないばかりか
怒声を浴びせる喧嘩すら、ほとんど起きない。
喧嘩口論に用いられる「罵倒語」の数も、日本が世界でも最も少ないという。
罵倒語が少ない事に関する出典)大野晋著 「日本語練習帳」 
岩波新書 1999


このように、良好な治安を維持でき、秩序正しく行動し、争いごとを好まない国民
が軍隊を持てば、その軍隊も、無用な殺戮を好まない秩序正しい軍隊となるのは
至極当然である。
前述の日本軍の姿は、まさに日本の国民性そのものといえよう。

日本が世界で最も治安が良く、アジア一秩序正しい国であるように、当時の
日本軍は、世界で最も秩序正しい軍隊だったのである。

では、なぜ、第二次大戦では、民間人が日本軍に殺され、捕虜が虐待される
事件が頻繁に起きたのだろうか?

その理由は二つある。

 一つは、共産党勢力や連合軍側の扇動により、民衆自体がゲリラ化
していた為である。

一番悔やまれる事は、アジア一粗暴な
朝鮮民族を帝国軍人として参戦させて
しまった為である。



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