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北朝鮮に対し「米中と協調」と朴酋長、強奪民族同志で勝手によろしくです

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嘘に塗れし強奪民族・・・・朝鮮人

訪米中の朝鮮の朴槿恵酋長は5日、ニューヨークで朝鮮系米国人らとの夕食会
に出席し、北朝鮮に挑発の中断をあらためて要求。
北朝鮮に対し南朝と共同歩調を取っている国の代表として米国と中国を挙げ
たが、日本には触れなかった。

朝鮮民族は人でなし・・ひとモドキなんだよ

米国の朝鮮系社会が竹島(島根県隠岐の島町)の領有権を主張する運動を
 展開していることを歓迎。

最近ニューヨークの繁華街タイムズスクエアの大型画面で、島は朝鮮領だと訴え
る広告が出されたなどと述べ、評価した。


 朴酋長は6日には、ニューヨークの国連本部で潘基文事務総長と会談し
北朝鮮問題などを協議。7日にはオバマ米大統領との初の首脳会談に臨む。



竹島強奪!当時の記録

1952年2月4日、福岡県北湊町の大邦漁業株式会社所属の漁船、第一大邦丸
と第二大邦丸(それぞれ乗組員22名)は、
済州島に近い公海上に設定された284農林漁区で操業していた。

午前7時ごろ、朝鮮漁船第一昌運号・第二昌運号が接近してきて、友好的な
態度をよそおい

「魚はとれますか?」

などと日本語で話し掛けてきた。 

朝鮮漁船は大邦丸からいったん離れ、操業をはじめたという。 

ところが、この漁船には武装した朝鮮の憲兵を含む7~8人が潜んでおり

漁船に偽装した武装船だった。 

第一大邦丸が網揚げ作業をはじめたとき、

およそ30mの距離から無警告で、朝鮮漁船に潜んでいた憲兵が

”自動小銃で日本漁船を攻撃”しはじめた。

不意をつかれた日本漁船は攻撃を回避しようと船を走らせたが、

朝鮮武装船のしつような追跡と銃撃を受け、

このときに第一大邦丸の漁労長・瀬戸重次郎さん(当時34歳)の後頭部に

銃弾が命中、意識不明の重体となった。

これによって二隻の日本漁船は、朝鮮武装船に拉致された。

日本漁船は済州島・翰林に連行、金目のものは朝鮮警察に略奪された

日本人漁師たちは朝鮮警察に、頭部に重傷を負った瀬戸さんのすみやかな

治療を懇願したが、朝鮮側は瀬戸さんを一人の”開業医”に預けただけだった。

そこは病室はおろか治療に必要な設備が何一つないところで、

日本人漁師たちは、医療設備が整った朝鮮軍の病院で瀬戸さんが治療を受け

られるようにしてくれと抗議したが

何度も拒否された。

それでも食い下がって何とか入院の承諾を得たが、瀬戸さんは放置された

ままだった。 

日本人漁師たちは、瀬戸さんの生命維持のためリンゲル注射をしてくれるよう

頼んだが

韓国人医師に

「リンゲルは高価だから」

と冷たく言われ拒否された。

日本人漁師たちが、自分たちの所持品を売って現金を払うという約束をして

ようやく瀬戸さんは注射をうってもらえた。

ところが朝鮮側の約束はウソだった。

「救急車よ早くきてくれ」

という日本人漁師たちの願いも空しく、瀬戸さんはそれから2日間も放置された

ままだった。

瀬戸さんは2月6日23時ごろ亡くなった。

すぐに解剖が行われ、瀬戸さんの死因は朝鮮憲兵の発射した銃弾が頭部に

命中したことであることが判明した。

日本人漁師たちは、朝鮮側に瀬戸さんの葬儀を願い出たが無視され、漁師たち

が数少ない私物をお金にかえて薪を買い、それで火葬が行われた。

一方、後に残された日本人漁師たちは、朝鮮側に拉致され”取り調べ”を受け

ている最中

全く食事を与えられないという虐待を受けた。

これは明確な国際条約違反である。

そこで漁師たちは、朝鮮側の略奪を免れ漁船に備蓄してあった食料を分け

合って、命をつないでいた。

また取り調べにおいても、脅迫によって無理やり「自分たちは朝鮮領海を

侵犯しました」という内容の調書へ署名させられた。

日本政府は抗議したが、朝鮮の李承晩政権は

大邦丸はわが国の領海と”李承晩ライン”を侵犯した」

と言い張った。

ところが海図など取り調べ調書がデタラメであったことが判明

在日米軍のグリッチ少将が事件解決に乗り出し李承晩大統領と会見

李承晩は韓国憲兵隊が日本漁船を公海上で拉致したことについて

遺憾の意を表明した。
 

これによって日本人漁民と漁船の返還が決定され、2月15日に済州島を出発

アメリカ軍のフリゲート艦に付き添われてようやく帰国した。

日本人漁師たちは朝鮮を出航するとき、ずうずうしくも朝鮮側から

日本に帰っても朝鮮の悪口を言わないでくれ

と言われたという。   朝鮮ひとモドキどもが・・・・


これが第一大邦丸事件である。

1965年までに、朝鮮側の蛮行によって負傷した日本人は、射殺された日本人

漁師の瀬戸さんを含め44人、拉致被害者は3929人、拿捕された

漁船は328隻に及ぶ。 

このときの人質によって、日姦協定が韓国側に有利に 

                            締結されたことは有名である。
 


古地図が語る「竹島は日本のもの」…貴重な

        物証、「隠岐」との関わり明確に

日本固有の領土にもかかわらず朝鮮の不法占拠が続く島根県隠岐の島町の
竹島」。
県は竹島と隠岐諸島の深い関係を国内外に伝えるため、入念に資料収集を続け
今年に入って昭和初期の地図が相次いで見つかった。朝鮮の不法占拠から
約60年が経過し、竹島の様子を直接見聞きした人が少なくなる中、地図は
竹島と隠岐の人々の歴史的な歩みを示す貴重な“証人”と注目を浴びている。

竹島は隠岐諸島の北西約157キロ沖の日本海上に位置し、2つの小島と周辺
の数十の岩礁から成る。総面積(約0・21平方キロメートル)は日比谷公園
(東京都)の1・4倍、東京ドーム5つ分の大きさで、アワビなどの
水産資源が豊富だ。

サンフランシスコ講和条約が発効する3カ月前の昭和27年1月、朝鮮の
李承晩大統領は竹島を朝鮮領とする「李承晩ライン」を国際法に反して一方的
に設定。

竹島周辺で操業をしていた漁船約300隻が拿(だ)捕(ほ)され、44人が死傷
漁師約4千人が抑留された。

根県によると、日本の竹島での漁は、朝鮮の沿岸警備隊が竹島を不法占拠
する直前の29年5月に、隠岐島の漁民らが周辺海域でアワビやサザエを捕った
のが最後。周辺海域は日姦の漁船が操業できる暫定水域内にもかかわらず
現在も日本漁船がまったく近づくことができない。

一方で島根県は領土問題が解決されれば、竹島周辺ですぐに漁を再開できる
よう昭和28年に漁業権を設定し、10年ごとに切り替えてきた。

漁業権は漁協などの漁を認める権利。現行の漁業権の期限は平成25年
8月31日までで、地元漁協による隠岐島漁業協同組合連合会が取得している。

県は4月23日、今年9月以降の10年も現行の内容で切り替える方針を決めた。
漁場は竹島の岸から500メートルの範囲で、対象はアワビ、サザエ、ワカメ
イワノリ、テングサ。同漁連が継続して交付を受ける見通しだ。

男島と女島の表記 

新たに見つかったのは、昭和初期に漁師らが竹島に滞在した際の状況を示し
たとみられる地図「竹島略図」。手書きのもので、西島を「男(お)島(しま)」
東島を「女(め)島(しま)」と記載。当時の島の様子を知る手掛かりになると
注目されている。

地図は、県文書「渉外関係綴」に収録されているのを県が見つけた。
昭和3年9月27日から10月20日まで漁師らが竹島に滞在した際の状況を記
したものとみられている。「男島」と「女島」の呼称は隠岐の島の住民への聞き
取り調査とも一致する。

洞窟で水が湧いた場所をさすとみられる「水」や火山の噴火口とみられる「穴」
のほか、「トド狩場」の表記もあった。西島の北側付近でアシカを頻繁に目撃した
という話があり、「トド狩場」はそれと符合する。

ダイコン栽培

竹島略図の東島には耕地の跡を示す「畑跡」と記された場所もあった。
昭和初期に竹島での漁に関わった隠岐の島町の男性は生前、「竹島渡航の
際には植え付けのよい葉ネギを1束持っていき、東島の畑に植えた。ダイコン
ハクサイの種も畑に植えた」と語っている。

 

「20~30日もするとダイコンやハクサイも葉っぱが出始めるので食べることが
できた。竹島の畑で育った青物はみそ汁の具として食べた」と証言している。

県は「昭和初期に隠岐の漁民に竹島が経済的に利用されていたわが国が
        実効支配していた具体的な実態を改めて確認できる」としている。

観光パンフにも記載

竹島は江戸時代以降、近くにある鬱陵島への寄港地としても
利用されてきた。
島根県は、今年に入って竹島と隠岐の人々とのつながりを知る資料を
相次いで確認した。

隠岐汽船(隠岐の島町)が昭和15年に発行した隠岐諸島の観光パンフレット
(縦38センチ、横53センチ)もその一つ。

カラー刷りで折りたため、竹島を名所
として取り上げており、隠岐汽船の寄港地や後鳥羽上皇行在所跡など隠岐の
名所、牛突きなどの名物を写真とともに紹介している。

竹島については「西郷港より百浬(かいり)、島後の西北海中に吃立する2個
の大岩嶼(しょ)と多数の小岩とより成る無人の島嶼であり、海(あし)驢(か)
の生息地である」と解説。 

裏表紙の隠岐諸島の地図「隠岐國略図」は、左上に竹島が記され、そばに
アシカとクジラのイラストが描かれている。

竹島関係の公文書や資料などを公開している竹島資料室は「隠岐の名所
とともに竹島も紹介されている。竹島が隠岐の住民によく知られていたこと
の証明」としている。

日本船舶の航路

竹島付近を通る船舶の航路が書かれた戦時中の地図2点も見つかった。

島根県は「竹島が近代以降も日本の船舶の目印になっていたことが分かる
と強調する。

地図は、昭和17年発行の「太平洋素図」と18年の「太平洋全図」。国土地理
院の前身にあたる大日本帝国陸地測量部が発行した。

地図には、2点とも左上に「竹島」とあり、鬱陵島は「欝陵島(松島)」と
書かれていた。

太平洋素図には航路上に「小樽-大連」の表記があり、昭和元年に開設された
航路「大連・朝鮮・北海道線」とみられる。

地図は、宮崎市の男性が島根県が資料提供を呼び掛けているのを知り
提供した。

県の調べで、同じ地図が国会図書館や東北大学に所蔵されていることも分かった。 

県は「陸地測量部が発行した地図は明治38年の竹島の島根県編入後、明確
に島根県所属と記載している」とした上で、「近代に入っても竹島が日本海を
通る日本船舶の目印となっていたのが確認されたのは重要な発見」
と説明している。

日本固有の領土

領土問題をめぐっては、産経新聞が創刊80周年と「正論」40周年の記念
事業として発表した「国民の憲法」要綱で、現行憲法にない「領土規定」を提唱。
日本固有の領土である北方領土と竹島は、ロシアと朝鮮に不法占拠されたまま
日本が実効統治している尖閣諸島周辺では中国公船が領海侵犯を繰り返し
奪取を狙っている」と指摘したうえで、日本の主権が及ぶ領土(領海、領空を含む
)の範囲を内外に明確に知らしめるべきとしている。

竹島をめぐっては、今年2月、島根県で開催の「竹島の日」式典に抗議するた
め関西国際空港から入国しようとした朝鮮の市民団体が入国審査で7時間
足止めになるなどして話題となり、日本、朝鮮両国内での関心は高まっている。

竹島は明治38年に島根県編入され、昭和初期の地図では当時の島の様子や
隠岐の人々との関わりが具体的に記載され、竹島と隠岐の人々の歩みを知る
うえで貴重な証左ともいえる。


 馬鹿はだまってろ ゲス野郎



 

 


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