※韓国(ウンコ)
賤しい朝鮮人の愚行
試し腹
奴隷制度
父親が自分の娘が妊娠できるかを確認する為に性行為をして
孕ませる行為。
朝鮮では 父親の権利が絶対だそうです。
女は女房でも 娘でも奴隷扱いだったそうです。
生まれてこなければ良かったとの苦しみの
一生を過ごすことになる。
「女は子を産む道具でしかない」朝鮮では
「道具(女)が不良品(不妊症等)であってはならない。
故に、『これこの通り、妊娠できる体でございます』ということを証明
するために、
「種男」という男に娘を犯させ、妊娠した状態で輿入
れさせる」
これを「試し腹」と言います。
産まれてくる子供は、当然夫の血を引いていないため妻と同じ
奴隷的な身分しかなく、
結婚はおろか大人になるまで成長する者
も稀だったと言われています。
自分の娘を血縁の近い男(兄や叔父)に妊娠させて、妊娠
できる女と証明させて
嫁がせる儒教思想が暴走した悪しき習慣
だそうです。
奴隷制度
奴婢は品物のように売買・略奪相続譲与・担保の対象
になった。
かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため主人
が殴っても犯して売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら
問題はなかった。
奥方たちの嫉妬を買った碑女は打据えられたりひどい場合は打ち
殺されることもあった。
李氏朝鮮時代の身分制度
この時代(1392年―1910年(ただし、1897年からは「大韓帝国」であったが
実体は李氏朝鮮時代))の身分制度も高麗時代のものを継承した。
身分は、大きく「良民」と「賤民」に分かれる。
「良民」とは、自由民であり、納税、国役の義務を負い、さらに
「両班(文班、武班)」、「中人(下級役人、技術官など)」
「常民(農民、商人、職人)」に分けられた。
「賤民」は「奴隷―奴婢」と「白丁(ペクチョン)(動物の屠殺に従事する者)」
「才人(広大ともいう)(芸人)」、「官妓(役所に所属する酌婦)」
「牽令(キュンエン)(牛・馬を引く者)」、「砲手(猟師)」
「水尺(スチョク)(狩猟民)」、「駅卒(駅の使用人)」、「巫女」、「僧侶」など
多岐にわたっていた。
「奴婢」は「公奴婢―国家に所属するもの」と「私奴婢―個人に所属するもの」
に分けられていた。
さらに奴婢は「公奴婢、」「私奴婢」とも「入役奴婢」と「納貢奴婢」とがあった。
「入役奴婢」は、国の労役や主人の雑役に従事しなければならないが、
「納貢奴婢」は国や主人から独立の生計を営みながら一定の身貢をする
義務があった。
奴婢は売買、贈与、相続の対象となった。つまり、財物として扱われていた。
父母の一方が奴婢の場合は、子も奴婢となった。
「両班」が罪を犯し「奴婢」になったり
「奴婢」が軍功などで「中人」、「常民」になったりすることもあったが、極めて
まれで身分間の移動はなかった。
豊臣秀吉の朝鮮征伐
(文禄の役(1592年―朝鮮では壬辰倭乱(イムジンウェラン)
慶長の役(1596年―朝鮮では丁酉再乱(チョンユウチェラン))のときに
ソウルの王宮(景福宮)が放火され炎上したが、これは日本軍のもので
はなく(朝鮮では日本軍が放火したと捏造している)
奴婢が登録簿を滅失させるために行ったものである
日本の名誉のために当時の文書から引用する。
「城中を観望すれば、火起こりて煙焔天に漲る。
蓋し乱民先ず、堂隷院刑曹を焚く。
その公私奴婢の文籍在る所を以ってなり・・・・」
(朝鮮史第四編第九巻宣王25年4月30日)
奴婢制度は、1894年の甲午改革で廃止されるまで続いた。
しかし、なかなかその偏見は収まらず現在でも「五姓」といって賎民の子孫
とされる「姓」があり結婚・就職などの障害が見られる。
「半島の両班は、まるで支配者か、暴君のごとくふるまっている。
両班は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕えさせる。
その者が手際よく金を出せば釈放されるが出さない場合は、両班の家に
連行され投獄され食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまで
ムチ打たれる。
両班の中で最も正直な者たちも、多かれ少なかれ、自発的な借用の形で
自分の窃盗行為を偽装するがそれに欺かれる者は誰もいない。
なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつて
ないからである。
彼らが農民から田畑や家を買うときはほとんどの場合支払いなしで
済ませてしまう。
しかもこの強盗行為を阻止する守令は一人もいない
マリ・ニコル・アントン・ダブリィ主教「韓国事情」
李氏韓国の残酷な死刑や拷問に対して「こんな状況がまだこの地球の片隅
に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。
とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは異教徒の日本人が半島
を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうということだ」
スウェーデン人 アーソン・グレブスト 「悲劇の韓国」
「韓国は古くから中国の属国だった。国を統治する王家はあったが、彼らは
中国朝廷に朝貢し、外交政策は中国に指導を仰いでいた。」
アメリカの鏡・日本 ヘレン・ミアーズ
1871
年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が半島を襲い国土は荒廃した。
あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に
1人当たり米1升で売るものもいた。
北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの韓国人は、
惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示、「どこの道にも死体が転がって
いる」と訴えた。
しかし、そんなときでさえ、半島国王は、中国や日本からの食料買入れを
許すより、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。」
フランス人宣教師
シャルル・ダレ(韓国事情・平凡社東洋文庫)
奴隷制度を持つ朝鮮
現代の日本人は忘れているようだが、朝鮮は日本とは何の共通点もない
「よその国」だ。日本人は今韓国に近寄りすぎていて、見えるものも見えなく
なっている。
日本と朝鮮との「最大の違い」は“奴隷制度”があったかなかったかということだ。
李氏朝鮮をとってみても、一番上に両班(ヤンバン)があって、その下に普通
の人である中人、その下に常人(小作人)、その下に奴婢がいる。
奴婢は明らかに奴隷だ。
常人にも人権はなかった。
両班の息子・朴泰赫が書いた「醜い韓国人」(光文社)という本には、小作人の
素行が生意気だという理由だけで両班が打ちのめして足を折ったりして
一生不具者にしてしまうような、奴婢・小作人に対する壮絶なイジメが
書いてある。
この身分制度の人口比をみてみると、武士・町人に相当する
両班・中人が約60%。その下の常人・奴婢が約40%
下層階級の比率が非常に高い。
金正日政権下、多くの国民が飢えていると言われている今の北朝鮮でも
経済的な貧困層の比率をみてみると、やはり「40%」。
社会国家に衣替えしたところで、身分制度を含め、中身は李氏朝鮮時代のまま
ということだ。
身分差別に加え、地域差別もある。ロサンゼルスに行くと沢山のコリアンが
いて、コリアンタウンが出来ている。
彼らに出身地を聞くと、異口同音に「ソウル」と言う。
それはウソで、大方は全羅道あたりの人たちだ。(奴婢・白丁)
なぜなら彼ら全羅道の出身者は、本国では差別され出世ができない。
だから、「ソウル出身」と偽る。日本に密航や渡航をしてくるコリアンたちも
ほとんどが全羅道の出身者だ。
彼らはまず日本に来て、運がいいとそこからアメリカに渡っていく。
国を捨てたくなるほどの凄まじい差別があるからだ。
朝鮮の歴史には、「奴隷制度」というものが常態としてあって、それに加えて
様々な「差別」があるということだ。
韓国は、支那の真似をして韓国独立記念館をつくったが、そこへ行くと
日本人による朝鮮人拷問の様子が再現されている。
例えば「ボウダ」という拷問は、足をゆわえて足の間に棒を入れてこじると
いうもの。
それで足を折ったりする。竹で作った鞭も展示されている。
「残酷日本人」がやったという紹介文がついているが、そんな拷問道具など
日本人は知らない。
そして、なぜか同じものが両班記念館にも、「両班が小作人を折檻した道具」
として保存してある。
「醜い韓国人」を読まなくとも、両班がそういうイジメをやっていたということ
がよく分かる。
「名」もなき朝鮮の女性たち
朝鮮では女性差別も甚だしかった。
日本が1910年に韓国を併合して、まず人口動態を調べようとしたら
統計がない。
戸籍すらない。
しかも、女性には「名」もないことが分かった。
「姓」はあるが、「朴さんところの嫁さん」という通称だけで、個々の名前がない。
そこで日本が名前を付けさせ、戸籍を作った。
それほど朝鮮人女性というのは差別されていた。
朝鮮の古い文献を見ても、「閔妃」などという妃の名は出てくるが
下層階級の女性の名は出てこない。
日本が戸籍を作ってから、「芳子」とか「君子」とか、日本式の
「子」のつく名前が急に増える。
それを「ヨンジャ」とか読むのだが、それは名を付ける伝統がないから日本の
真似をしたということだろう。
「女性を大事にするかどうか」は文化のバロメーターだ。
女性の待遇をみれば、その国の文化がわかる。
それだけでも日本と朝鮮にはものすごく大きな違いがある。
ちなみに、日本では「女流文学」が既に11世紀には成立している。
西欧に500年先駆けている。紫式部、清少納言をはじめ、女流作家が
ぞろぞろいた。
江戸時代には寺子屋制度もできるが、寺子屋の先生は3分の1が女性だった。
教育の普及に加え、有職の婦人がすでにそれだけ存在したことは世界の
奇跡と言ってもいいほどだ。
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(1) なぜ、わたしは朝鮮人にうまれたの・・生まれてこなければ良かったとの苦しみの一生を過ごす。
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