◆西洋諸国ではなく日本がユダヤ難民に扉を開いてくれた
関東軍司令部は一九三八(昭和十三)年一月に
「現下二於ケル対猶太民族施策要領」を定めていた。
これは
東條参謀長が決裁したものであった。
要領は日本がユダヤ人を差別しないことについて
「独逸其ノ他ノ列国二対シテハ我民族協和
八紘一宇ノ精神並二防共ノ大義二遵由スルヲ諒解
セシメ誤解ナカラム」(第四項)と述べていた。
当時、日本とドイツは、防共協定を結んでいた。
防共協定 - Wikipedia
東條と、樋口と、安江が二万人以上のユダヤ人難民を
窮状から救ったのは
〃日本のシンドラー"として有名になった
杉原千畝リトアニア駐在領事代理が首都のカウナスで
一九四〇(昭和十五)年七月から九月にかけて
"生命のビザ〃を発行して
六千人以上のユダヤ人難民を救った
その二年以上も前のことである。
三人の日本軍将校と、杉原が、ユダヤ人を救った時には
アメリカや、イギリスをはじめとする諸国が
ユダヤ人難民に対して扉を閉じていた。
もし、このころにこれらの西洋諸国がユダヤ人難民を
受け入れていたとしたら、その後、数百万人のユダヤ人が
ナチスによって虐殺される運命から逃れることができた
ことだろう。
ところが、日本は扉を開いたのだった。
◆ドイツの抗議を一蹴した東條
オトポールに集結したユダヤ人難民の大多数が
ドイツ旅券を持っていた。
旅券には赤い字で大きく、ユダヤ人の"J〃を示すゴム印が
押されていた。
ドイツ政府はユダヤ人は子供にいたるまで
衣服にユダヤの象徴である、黄色の"ダビデの星〃
の縫い取りをつけることを、義務づけていた。
難民たちはドイツから出国した時に
この屈辱的な縫い取りをいっせいにはぎ取って
捨てていた。
すると、ドイツ外務省が日本政府に対して
大量のユダヤ人難民を満州国へ入れたことに対して
強硬な抗議を行った。こ
の抗議は、東京から新京の関東軍司令部へ、すぐに
伝えられた。
すると、東條参謀長は難民を受け入れたのは
「当然なる人道上いつしゆうの配慮によって行ったものだ」
として、一蹴した。
この時
東條参謀長が樋口に許可を与えなかったとすれば
ユダヤ人難民が救われることはなかった。
樋口は有能な軍人であり、その後、東京の参謀本部で
部長などを歴任し、中将に昇進した。
太平洋戦争の末期には
千島列島と北海道の防衡を担当する北部軍司令官と
なっていた。
樋口がこのように軍人として順調に出世したのは
規則を忠実に守ったからだった。
樋口がオトポールに殺到したユダヤ人難民を入境させる
のに当たって、参謀長の許可を仰がないはずがなかった。
◆明治以来の
日本も、西洋人によるおぞましい
人種差別の対象
日本は明治に西洋の列強の威嚇のもとに
開国と近代化を強いられて以来、列強によって
屈辱的な不平等条約を結ばされていた。
幕末から海外を旅した日本人は
西洋の帝国主義諸国が同じアジアの民を
家畜同様に扱っていたのをみて、深く憤るとともに
人種平等の世界を創ることを、強く願った。
アジアの欧米植民地の残虐さ/日本人にはとてもできない悪 …
日本が最後の不平等条約を改正することができたのは
日本が日露戦争に勝った後のことだった。
日本人も、傲る西洋人によるおぞましい人種差別の対象
となっていた。
日本が日露戦争に勝つと
その直後からアメリカのカリフォルニア州において
日本人移民排斥運動が起こった。
このことは、日本国民をいたく憤慨させた。
サンフランシスコ市は日露戦争が終わった翌年に
日本人児童の小学校就学を禁じて、全市の小学校から
追放した。
全市で二万人以上の小学生がいたなかで、日本人児童は
僅か百人にみたなかった。
東條も、樋口も、日本人だったのだ。
当時の日本人は、誰もが西洋の列強が公然ともと
人種差別を行っていたのを、正義に悖るとみなしていた。
東條や、樋口はこのような国民精神にもとづいて
ユダヤ人難民を救ったのだった。
日本人とユダヤ人は、正義をことさらに愛する民である。
ここにも両民族のあいだに、もう一つの共通点がある
◆東條英機の名が
『ゴールデン・ブック』に載らなかった理由
東條英機 - Wikipedia
だが、どうして東條英機の名が
『ゴールデン・ブック』に刻まれることがなかったのだろうか。
東傑は最高責任者として、樋口や、安江とともに
称えられるべきだった。
しかし、『ゴールデン・ブック』に名を載せるためには
複数のユダヤ人か、あるいはユダヤ人団体が推薦する
必要があった。
そして、かなりの金額だった五十スターリング
(イギリス)ポンドを、ユダヤ民族基金に
寄付しなければならなかった。
樋口と安江は
ユダヤ人の逆境に同情して、好意を寄せていただけではなく
特務機関の幹部としてハルビンのユダヤ民族協会と
頻繁に接触していたから、ユダヤ人社会と個人的な
交流があった。
しかし、東條はオトポールのユダヤ人難民を救う鍵を
握っており、その鍵を使って、難民を救うために
満州国の門扉を開いたものの、ユダヤ人と親交を
結ぶ機会がなかった。
その時にハルビンにあった極東ユダヤ民族協会の会長は
医師のアブラハム・カウフマン博士だった。
ロシアのウラル地方のパウムの出身だったが
一九二一年に満州へ移ってきたのだった。
◆鍵を握るカウフマン
カウフマンは
「東條参謀長が、父や、ユダヤ民族協会の幹部と会って
いたとしたら、その名が樋口と安江とともに
一九四一年の夏に、問違いなく
『ゴールデン・ブック』に刻まれたはずだ」
語った。
もしも、そうなっていたとすれば、
の後の東條の国際的なイメージが、大きく変わって
いたにちがいない。
東條は日本の敗戦後に
連合国が行った一方的な東京裁判によって
"A級戦犯"として絞首刑に処せられたが
全世界のユダヤ人たちから助命嘆願書が
マッカーサー元帥のもとに寄せられたことだったろう。
そして連合国を、ひどく困惑させたにちがいない。
◆アメリカの黒人差別がやんだのは
日本がアジアを解放したため
当時、アメリカは国内で、黒人を法的に差別していた。
黒人に対する差別は、当然のこととして、全国で
ひろく行われていた。
野球はアメリカの国技であるが
黒人が野球選手となれるようになったのは
第二次大戦後のことである。
第二次大戦によって日本がアジア諸民族を解放すると
アメリカも国内で黒人を差別することができなくなった。
今日では、西洋諸国において
第二次大戦はアメリカや、イギリスをはじめとする
「民主主義勢力」とドイツや、日本などの「ファシスト勢力」
の戦いだったと信じられている。
人と民-漢字家族
日本が第二次大戦を戦った結果として
数世紀にわたって白人の覇権支配のもとに置かれていた
アジア・アフリカ諸民族が、鎖から解き放たれた。
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日本の戦争は正しかった
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