1975年,三木武夫首相が,戦後の首相としては初めて
終戦記念日に靖国神社を参拝しました。
この時,政教分離の原則に反するのではないかとの
指摘に「私的参拝である。」と言い切っています。
この1975年の11月21日に
昭和天皇・香淳皇后が靖国神社と千鳥が淵戦没者墓苑
に参拝しています。
この両陛下の参拝に際して国会で
議論になりました。
両陛下の参拝は私的参拝か,公式参拝か。
天皇はそれ以後両陛下が靖国神社に
参拝されなくなりました。
1975年11月21日に参拝されたのが
最後となりました。
A級戦犯?が合祀されたのは
その後の1978年です。
天皇陛下が皇居外でなさる行事は全て公式行事
であるため
私的参拝はあり得ず,天皇自ら参拝すると世の中を
ひっくり返したような騒ぎなることが分かっているので
参拝なさりません。
なお,靖国神社の春と秋に行われる
例大祭には,勅使が遣わされています。
昭和天皇が一九八八年
靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に
強い不快感を示し
「だから私はあれ以来参拝していない。
それが私の心だ」と・・・。
当時の宮内庁長官、富田朝彦(故人)に
語っていたことが十九日、日本経済新聞が
入手した富田氏のメモで分かった。
昭和天皇は
一九七八年のA級戦犯合祀以降
参拝しなかったが、理由は明らかにして
いなかった。
昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり
史料としての歴史的価値も高い。
(靖国神社は3面「きょうのことば」参照)
=関連記事3面
靖国神社に参拝しない理由を昭和天皇が
明確に語り、その発言を書き留めた文書が
見つかったのは初めて。
「昭和天皇が参拝しなくなったのは
A級戦犯合祀が原因ではないか」
との見方が裏付けられた。
富田は昭和天皇と交わされた会話を
日記や手帳に克明に書き残していた。
日記は同庁次長時代も含む
七五―八六年まで各一冊、手帳は
八六―九七年の二十数冊が残されていた。
靖国神社についての発言メモは
八八年四月二十八日付で、手帳に
張り付けてあった。
昭和天皇はまず
「私は、或る時に、A級(戦犯)が合祀され
その上、松岡、白取(原文のまま)までもが。
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
と語ったと記されている。
「松岡」「白取」はA級戦犯の中で合祀されている。
松岡洋右元外相
松岡洋右 - Wikipedia
白鳥敏夫元駐伊大使
白鳥敏夫 - Wikipedia
「筑波」は六六年に厚生省から
A級戦犯の祭神名票を受け取りながら
合祀しなかった
筑波藤麿・靖国神社宮司(故人)を
指すとみられる。
さらに
「松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々(やすやす)と。
松平は平和に強い考(え)があったと思うのに
親の心子知らずと思っている。
だから、私はあれ以来参拝をしていない。
それが私の心だ」と述べている。
この部分の「松平」は終戦直後に
最後の宮内大臣を務めた
松平慶民氏(故人)と
その長男で七八年にA級戦犯合祀に
踏み切った当時の松平永芳・靖国神社宮司
を指すとみられる。
松平永芳・靖国神社宮司
松平永芳 - Wikipedia
同日付のメモの前半部分には
天皇誕生日(四月二十九日)に先立って
行われた記者会見で、戦争に対する考えを
質問されたことへの感想も記されていた。
会見で昭和天皇は
「何といっても大戦のことが一番いやな思い出」
と答えているが
メモでは一部の政治家の靖国神社を巡る発言
にも言及しつつ
「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを
表現したかった」と話していた。
※誕生日会見の記録を見よう。
大戦についてのお考えを、との質問に
「大戦のことが一番いやな思い出です」と述べるにとどめ
戦争になった最大の原因はとの問いには
「そのことは人物の批判とかそういうものが加わりますから」
と答えを避けている。
昭和天皇は靖国神社を戦後八回参拝したが
七五年十一月の参拝が最後となった。
参拝しなくなった理由についてはこれまで
「A級戦犯合祀が原因」「三木首相の靖国参拝が
『公人か、私人か』を巡り政治問題化したため自粛した」
との二つの見方があった。
現在の今上天皇も八九年の即位以降
一度も参拝されていない。
昭和天皇
昭和史に関する著書の多い秦郁彦日大講師の話
富田元長官の日記、メモを見ると、昭和天皇の
信頼を得た虚飾のない律儀な人柄が感じられる。
富田氏は政治的な動きをつつしむ気配りの人
だったようだ。
それだけにメモの信頼性は高いと思う。
昭和天皇の靖国神社不参拝問題は関係者の証言
が乏しく、憶測で議論が続いてきたが
今回、決定的とみられるメモが出てきたため
今後はこの「事実」を踏まえた議論になるだろう。
故松平宮司は遺族の了解をとらず、天皇の内意も
確かめず、秘かにA級戦犯を合祀してしまった。
東京裁判を全否定する松平宮司の信念はともかく
必要な手順を踏まずにまつるべきではなかった。
昭和天皇は
下記のように発言しています。
1. 終戦直前の御前会議、あるいは米軍進駐後に
マッカーサー元帥と会見した際に
「私はどうなっても良いから国民を助けたい」
と述べている。大日本帝国憲法の君主無答責規定
はどうあれ、敗戦国の元首として戦争責任を
負う(連合国によって処刑される)覚悟を見ます。
2. いわゆるA級戦犯に対して、「戦後」に
「敵国から見れば犯罪者でも、わが国から見れば
忠臣である。
我が股肱を連合国に引き渡すのは忍びない」
「東條は良くやってくれた」
(東條元首相の処刑後、遺族に対して
慰謝の言葉を伝えています)
といった言葉を発しています。
昭和天皇が
A級戦犯に戦争責任を押し付けていたという
形跡は全く伺えません。
今回の報道を見て私も驚きましたが、詳細を知って
「安堵」しました。
3. 昭和天皇は、昭和50年までは靖国神社に
何度も行幸し
「明らかでない何らかの理由」で行幸をやめた後も
春秋の祭事には勅使を派遣しています。
これは今上陛下に継承されているはずです。
日経で報じられた
「元宮内庁長官富田氏の手帳に貼ってあったメモ」
を根拠に「昭和天皇がA級戦犯との合祀が原因で
靖国に参拝しなくなった」と判断するのは問題が多いようです。
そもそも、このメモが昭和天皇の言葉を記したものと
判断する根拠は何でしょう?
1. メモが書かれたとされる昭和63年4月28日には
富田氏が昭和天皇と面談した記録がないとのこと。
2. メモの画像を見ると「私」が昭和天皇と判断する
根拠が伺えない。
3. 速記者でもない富田氏が、昭和天皇の言葉を
一言一句書き記すか?
仮に昭和天皇の言葉を記すとすれば
「陛下はこう仰せられた」「陛下はこう思し召しの由」
などと書くのではないか。
7月21日付の産経新聞には
「昭和54年」の昭和天皇の言葉を書き記した部分として
「陛下に**と言上すると『長官はどう』と仰せになる」
と書かれていたとのことで、これなら分かる。
4. 昭和63年4月29日には、徳川義寛侍従長が退任
したとのこと。
その前日に、宮内庁長官が侍従長の話をメモした
とすれば理解できる内容である。