孝謙天皇(こうけんてんのう) 在位期間は 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて
西暦769、称徳女帝の御代
女帝の寵愛を受けて力を付けてきた弓削の道鏡は
天皇の位を臨むようになった。
そこで、称徳女帝は、神託を受けるために信任の厚い
法均尼を宇佐へ下がらせようとしたが、病身で
あったので代わりにその弟の和気清麻呂を
派遣した。
しかし、道鏡の皇位継承はNO。
※称徳女帝と道鏡
重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇
養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))
日本の第46代・第48代天皇。
孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)
天平宝字2年8月1日(758年9月7日)
称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日)
神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。
人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。
即位前の名は「阿倍内親王」。
平安時代の説話集には・・・
「道鏡と女帝は、枕を同じくして交わった」
という伝説が生まれるほど、ふたりの関係は親密でした。
そこへ宇佐八幡宮の信託が・・・
「道鏡を皇位につければ天下は太平となる」
どうして皇族ではない道鏡に皇位継承の信託が
下ったのでしょうか?
仕組んだのは称徳天皇?道鏡?宮廷貴族の陰謀??
宇佐八幡信託事件です。
ここで問題なのは
何故宇佐八幡宮であって伊勢神宮ではないのか?
伊勢神宮は天皇家の祖先神である天照御大神を祭る
皇大神宮である。
崇神天皇の頃、4~5世紀頃
宮廷を離れて現在地の伊勢へ移されたといわれている。
奈良の都から近い伊勢神宮へ行かずに
何故九州の宇佐八幡宮まで神託を受けに行ったのか?
それにはそれなりの理由があった筈である。
それは何か?宇佐八幡宮には伊勢神宮より
重大な何かがあるからだ。
皇室の祖先神、天照御大神は邪馬台国の女王卑弥呼が
神格化されたと言われている。
即ち、宇佐八幡宮には卑弥呼がまつられているからに
他ならない。
(宇佐八幡宮は古墳の上に立っているが、いつの発掘かは
定かではないが巫女さんの話によると中央から石棺が一つ
発掘されたとの事である)
しかし、宇佐八幡宮の本殿には、卑弥呼とは
書かれていない。
比売大神と書かれている。
比売大神=ヒメミコ=卑弥呼である。??
三国志-東夷伝-倭人の条の著者「陳 寿」は
ヒメミコ又はヒミコの事を話に聞いて漢文で
記述する際、音読みで卑弥呼と記述したものと
思われる。
しかし、何故、選りによって
「卑文字」を使ったのか。
「邪馬台国」も然りである。
「邪」はヨコシマと言う意味であり
倭人の「倭」は醜いと言う意味である。
※朝鮮で好んで使うwww
当時、既に2千年以上の歴史があり、文字を持っていた
彼らは魏の属国である倭国を未開国と見ていたのだろう。
文献によると左、即ち3の御殿が「八幡様」即ち
応神天皇(誉田別尊)となっており
右、即ち1の御殿が日売大神となっているとの事である。
これは、何を意味するのであろうか?
応神天皇は、北方騎馬民族首領、神話のスサノオ
熊襲の王の子孫と言われている。
西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)
宮崎県のほぼ中央に位置する西都市の市街地西方を南北に走る
標高70メートル程度の洪積層の丘陵上に形成されている
日本最大級の古墳群である。
3世紀前半~3世紀半ばから7世紀前半にかけてのものと
推定されている。