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豊臣秀吉の朝鮮出兵の真実 (2)

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文禄の役

スペインは、東亜地域では、ルソン(いまのフィリピン)
東アジア地域全体の戦略統合本郡である総督府を
置いていました。



そして信長、秀吉の時代、スペインによってまだ征服されて
いなかったのは、東亜では、明国と日本だけ
なっていたのです。




日本が内乱に明け暮れていた時代の戦国大名たちは
最初は、宣教師たちについても、ただのものめずらしさ
しかありません。

ザビエルは、あちこちの大名に招かれ、大名たちもキリスト教
の信者になったりもして、伝道師たちを快く受け入れていました。


ところが唯一、日本が他の国々と違っていたのは、彼らが
持ち込んだ鉄砲という武器を、日本人はまたたくまに
コピーし、それを量産してしまったことです。


気がつけば、日本の鉄砲所持数は、なんと
世界全体の半数を占める莫大な数になってしまいました。


宣教師たちも、さすがにこれには驚いた様子で
イエズス会のドン・ロドリゴ
フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが
スペイン国王に送った上書にも、このことについては
明確な記述があります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは
望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で
軍隊の力による侵入は困難です。
よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に
悦んで臣事するように仕向けるしかありません。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは
日本だけではありません。

お隣の明国も、スペインは植民地化を狙っています。
 

こちらは、鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術
つまり人の数が多いだけです。


ただ、大陸は広く、その調略には手間がかかる。


ちなみに当時のスペインにとって
                                  朝鮮半島は対象外です。


朝鮮半島は
明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は
自動的に手に入る。それだけのことです。



さてそのスペインですが、明国を攻略するにあたり
当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に
一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。


ところが日本には、まるでそんなことに関心がない。

そもそも
信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世
をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。

信長は
比叡山を攻めたり、本願寺を攻めたりと、まるで第六天の魔王
であるかのように描かれることが多いですが、実際には
次々と行なった信長の戦いの目的は、一日も早く戦乱の世を
終わらせることに尽きた。



だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが
最近になって発見された各種文書から、次第にあきらかに
されてきています。

要するに、当時の日本の施政者にとっては、日本国内統一
と治安の回復こそが政治使命
だったわけで、わざわざ
明まで出かけて行く理由はひとつもない

ところが、日本が秀吉によって統一され、なんとかその
治安と太平を回復すると、今度は

対明国への対策が大きな課題となってきます。

どういうことかというと、スペインが日本に攻めて来たとしても
彼らは海を渡ってやってきます。

スペインとの直接対決ならば、海を渡ってやって来る
スペイン人は、数のうえからいえば少数であり、火力、武力
ともに日本の方が圧倒的に上位です。

従って、日本がスペインに攻略される心配はまるでない。

ところが、スペインが明国を植民地として支配下におさめると
様子が違ってきます。

いかに数多くの鉄砲を日本が持っているとはいえ
スペインに支配された明国兵が、数の力にモノを言わせて
日本に攻め込んできたら、これはたいへんなことになる。

元寇の再来です。
これは驚異です。



地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことで
日本への侵入、侵略を防ぐことができる。



このことは、ロシアの南下政策を防ぐために
明治日本が行なった政策と、当時の状況が酷似している
ことをあらわします。

秀吉は
すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊が
英国との戦争に破れスペイン自体が海軍力を大幅に
低下
させていることを知っています。

ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える
可能性は、まずありません。


一方、長く続く戦乱の世を終わらせようとする秀吉は
全国で刀狩りを実施し、日本の庶民から武力を奪っています。




これはつまり、日本に太平の世を築くために必要なことで
あったわけですが、同時にこのことは、もし日本が他国侵逼
の難にあったときは、日本の戦力を大きく削ぐことにも
つながってしまうのです。

ならば、武力がまだ豊富なうちに、余剰戦力を用いて
朝鮮出兵を行ない、朝鮮から明国までを日本の支配下
置いてしまうこと。

これは我が国の安全保障上、必要なこと、であったわけです。

こうして秀吉は
文禄の役(1592〜1593)、慶長の役(1597〜1598)と二度に
わたる朝鮮出兵を行なうのですが、同時に秀吉は
スペインとも果敢な政治的交渉を行なっています。

何をしたかというと、スペインに対して、日本に臣下として
の礼をとれ
!と申し出たのです。


最初にこれを行なったのが、文禄の役に先立つ1年前
天正18(1591)年9月のことです。



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