引用元:豊臣秀吉の朝鮮出兵とかいう黒歴史イベントw
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1483017496/
あれさえなければ秀吉完璧だったのにな
暇潰しに外国の地踏みたかったのかね?大陸視たかったのかな?
【省略】
スペインが、日本に最初にやってきたのは
天文18(1549)年のことでした。
宣教師フランシスコ・ザビエルの来日。
当時のスペイン宣教師とは、表向きはキリスト教の伝道ですが
裏では立派な軍事組織でした。
キリスト教の伝道と見せかけ、それぞれの国民に受け入れられ
やすそうな調子の良いことを言っては改宗させ
頃合いを見計らって軍隊を送り込み、人民の殺戮や財宝の
強奪、植民地占領などを行っていたのです。
16世紀から17世紀にかけての日本は大航海時代を迎えて
列強となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなど
のヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手
としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても
重視された。
※この時代は日本は室町から安土桃山時代の
乱世にあたる。
漂着した外国船の保護を契機として、海に面した
各地の諸大名が渡来する外国船から
火薬などを調達し、大量の銀が海外に流出していた。
日本からは輸出品:硫黄、銀、海産物、刀、漆器、そして
日本人も奴隷として輸出されていた。
1587年(天正15年)7月24日
豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者
であった宣教師ガスパール・コエリョを呼んで
人身売買と宣教師の関わりについて詰問
即日奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を
禁じるバテレン追放令を発布した。
※イエズス会(及びその背後にあるポルトガル勢力など)
が信長を亡き者にしようと企んで光秀を操って謀反を
起こさせたり、本能寺を爆破したりという説。
1592年(文禄元年)
秀吉は朝鮮出兵を決意した。
名護屋城に本陣を置き、15万もの兵で朝鮮に攻め込んだ。
(文禄の役)
なぜ秀吉は朝鮮出兵を行ない
世の大名たちも、これに追従したのか
ねずさんのひとりごと より
南朝鮮で、もっとも嫌われている日本の人物の代表といえば
豊臣秀吉があげられます。
理由は
文禄、慶長の役(ぶんろく、けいちょうのえき)で朝鮮半島に
攻め込んだからなのだそうです。
一方、この出兵に際し、日本と朝鮮半島の海峡で戦った
李舜臣は、まさにヒーローとされているそうです。
彼らの言い分によると、李舜臣の戦いによって
日本は海上を封鎖され、朝鮮半島への補給路を断たれた
日本は、半島からの敗退を余儀なくされたからなのだそうです。
まあ、朝鮮人にとっては歴史はファンタジーですから
そう「思い込みたい」気持ちもわからないでもありません。
けれど、事実関係はまるで異なります。
秀吉の朝鮮出兵は
◆秀吉が耄碌していたために起こした戦いだった、
◆秀吉の成長主義がひき起した身勝手な朝鮮征服の
戦いであった、
◆戦いを好む戦国武士団を朝鮮、支那に追い払い
殺して数を減らすための戦いだった。
などと、ほとんど意味不明の解説がなされて
いるようです。
日本国内だけの事情をいくら考えても
答えはでてきません。
そもそもなぜ、秀吉の時代に日本が一国にまとまったのか
そして朝鮮出兵をするに至った背景には何があったのか。
当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。
そしてそういう国の内外の事情を理解したからこそ
東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに
協力し、兵を出しているのです。
そもそも
二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)というのは
16世紀における東アジアでの最大の戦いです。
日本からは約16万の大軍が朝鮮半島に送り込まれたし
朝鮮と明国の連合軍は、戦力25万の大軍です。
天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いにしても
東軍7万、西軍8万の激突ですから、いかに朝鮮出兵の
規模が大きかったかがわかります。
この時代、世界全体を見渡せば、まさにスペイン国王が
世界を制した時代です。
世界の8割は、スペインの植民地となっていました。