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豊臣秀吉の朝鮮出兵の真実 (3)

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秀吉は
スペインの東亜地域の拠点であるルソン(フィリピン)総督府
に、原田孫七郎を派遣し
スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ
との国書を手渡します。

世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々
頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」などとやったのは
おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
まさに、気宇壮大というべきです。

対するスペイン総督府にしてみると
これはきわめて腹立たしいことだけれど、すでに無敵艦隊が
消滅し、海軍力を大幅に低下させている現状にあっては
日本に対して報復的処置をとれるだけの力はありません。
悔しいけれど、放置するしかない。

すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。

驚いたのはルソンのスペイン総督府です。

日本が、朝鮮、明国を征すれば、その国力たるや
東亜最大の政治的、軍事的圧力となることは目に
見えています。
しかも、海を渡った朝鮮出兵ということは、いつ、ルソン島
のスペイン総督府に日本が攻めて来てもおかしくない。

慌てたスペイン総督府は
当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内の
ディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町の始まりです。



さらにスペイン総督府は
同年7月には、ドミニコ会士の宣教師、フアン・コポスを
日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信
届けています。

このとき、膨大な贈物も持参している。

いかにスペインが日本をおそれていたか、ということです。



けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。

重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を
手渡します。

その内容がすさまじいです。

スペイン国王は
日本と友好関係を打ち立て、マニラにあるスペイン総督府
日本に臣下としての礼をとれ、というのです。


朝鮮王、唯一の仕事が宗主国への土下座であった。
「三跪九叩頭の礼」といい、9回頭を地面に叩きつけてひれ伏し
支那の使者を迎えた。



そして、それがお嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ
このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ
、というのです。

この秀吉の書簡を受け取ったコポスは、帰路、遭難します。

本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が
100%スペイン国王の激怒を買うことがわかって、故意に
遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。


コポスの遭難のおかげで
秀吉の書簡は、スペイン総督府には届かなかったわけですが
当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。

けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉では
ありません。

秀吉は、10月には、原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に
書簡を総督府に届けさせたのです。

文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。

そしてこのとき
たまたま在マニラの支那人約2000人(明国から派遣された
正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して
スペインの総督府を襲ったのです。


スペイン兵は、応戦しますが、多勢に無勢です。

これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に
加勢し、またたく間に支那兵を殲滅してしまいます。


日本強し。

原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペイン
のゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。

けれど、ゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。
世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせる
など、とてもじゃないが報告できることではありません。

ゴメスは、なんとか時間をかせごうとします。

そして、翌文禄3(1594)年4月に
新たにフランシスコ会士のペドロ・バウチスタ・ベラスケスを
特使に任命し、日本派遣します。

要するに、特使の派遣を繰り返す中で、少しでも時間稼ぎを
しようしたのです。

名護屋でペドロと会見した秀吉の前で、ペドロは
スペイン王国が、いまや世界を制する大帝国であること
日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。

普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が
日本という東洋の小国と「対等な関係というだけでも
ものすごい譲歩です。

けれど、秀吉は聞く耳を持たない。

ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢
要請します。


なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。

理由があります。

第一に、国際関係において、対等な関係というものは
存在しないのです。


この時代における国際関係というのは、やるかやられるか
つまり上下の関係しかありません。

たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに
日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国である
ことを、思い知らせるしかなかったのです。

第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を
図ろうとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と
称して宣教師を日本に派遣します。

そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作
(まさにいま支那や韓国によって行なわれている日本解体
工作と同じ)を行なう。

現に、世界のあらゆる国家が
その方法でスペインの植民地にされていたのです。


ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ。

あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。
これしかなかったのです。

第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」
であったということです。

並みいる敵は、圧倒的な武力で制圧する。
その上で、武力そのものも奪ってしまう。
つまり「刀狩り」を行い、そうすることで秀吉は
「戦のない世の中」を実現しようとしています。

けれど、同時に刀狩りをして日本人から武力を奪うことは
一方において日本人を弱化させることを意味します。

ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するため
には、国際的な武力衝突の危険を日本から出来る限り
遠ざける必要がある。

名護屋におけるペドロ・バウチスタ・ベラスケスとの会見も
平行線となったスペインのゴメス提督は、日本との軟弱な
外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されて
しまいます。

そして後任の提督として
やってきたのが、ルイス・ダスマリニャスです。

ルイス・ダスマリニャスは、アウグステイン・ロドリゲスを
使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに
日本の戦力を冷静に分析します。

そして、ゴメスの分析通り、もし日本とスペインが、東亜で
正面から衝突すれば、むしろスペイン側に勝ち目がないことを
知ります。

そこでルイスは、秀吉との直接交渉は避け、ひとり、また
ひとりと、宣教師を日本に派遣するという戦略をとる。

つまり、時間を稼ぎ、その間に、当初の戦略通り、日本に
宣教をしていこうとしたのです。

文禄3(1594)年には、ルイス提督の意向を受けて
ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士4人が
日本に派遣され、日本での布教を再開しました。

秀吉も、これは認めています。

ところが、慶長元(1596)年のことです。

スペインの貨物船、サン・フェリーペ号が、荷物を満載したまま
遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。

救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が
取り調べにあたりました。

そこで驚くべき事実があきらかになります。

なんとサン・フェリーペ号の水先案内人が、増田長盛に
世界地図を見せ
「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると
次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を
征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」

と証言したのです。

報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26人を逮捕しました。

そして彼らを長崎に送りました。

キリシタンを続けたいなら、外国へ出て行け。

日本に残りたいなら、改宗しろ、というわけです。

迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を
長崎奉行に申し出ます。


磷付にして、晒してほしいと、申し入れたのです。



イエスズ会の腹はこうです。
26名の信者を、イエスの十字架になぞらえて見せ物にし
間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。

こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ
侵攻による団結心をたかめ


秀吉の朝鮮出兵は、スペインによる東洋の支配に対して
統一国家をやっと形成した日本が、いかに国を護るかを
考えた上での決断であった、ということです。

このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ても
まったくわかりません。

当時の世界情勢、東亜諸国の情勢をみなければ、秀吉が
なぜ朝鮮出兵を決意したのか、そして多くの大名たち
なぜその秀吉に従い、兵を出し、勇猛果敢に他国に出て
戦ったのかが、理解できない。


もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから
朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の
世界の動きは、スペインがロシアと変わっただけで
まったく同じことが歴史上、繰り返された、ということなのです。

もし、秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに
見せつけなければ、どうなっていたか。



スペインは、当然のことながら、明国を植民地としての
支配下に置いたことでしょうし、当然のことながら、朝鮮半島も
スペインの支配地となったことでしょう。


そしてスペインの支配地となることが、いかなる意味を持つのか。
そのことは、南米の様子が、見事にまで現代に伝えています。

いま、南米に南米人の純粋種は存在しません。
白人種との混血種だけです。

アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完ぺきに
抹殺されてしまいました。


このエリアの女性たちは、手当たりしだい強姦されたあげく、
子を産む前に殺戮されたのです。

ですから、いま住んでいるのは、ほぼ白人種です。

ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が
先住民族との混血です。

純血腫はいません。

強姦され、放置され、子を産み、いまに至っています。

日本も支那も朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら
いまに至っています。

なぜそうなったかといえば、秀吉たちが、スペインと
真っ向から戦う姿勢を明確に見せたためです。


ちなみに、慶長の役は、秀吉の死去にともなって、中止となり
日本は朝鮮半島から撤収しました。

だから、これは秀吉の気まぐれでおきた戦争だというのは
大きな間違いです。

半島に出兵した大名たちは、それぞれに真剣に戦ったのです。


ではなぜ日本が撤収したか。

こたえは簡単です。


スペイン自体が、英国やオランダに押されて、国力を低下させ
もはや東亜に構っていられなくなったのです。



わたしたちは
いま、スペインという世界最強の大帝国に対し
一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った
秀吉の壮大な気宇と誇りを、いまこそ見習うべき
ときにきているのではないでしょうか。



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