ウクライナ美女
「ロシアは北方領土を日本に返せ」
首都キエフで抗議活動
「ロシア! クリル(千島列島)の島は
日本固有の領土だ」
「北方領土の日」の7日、ロシア大使館前に日の丸と
横断幕が並び、若者約10人が雪の中に立った。
日本ではない。ウクライナの首都キエフでのことだ。
主催したのは
20代を中心に昨年結成された小さな市民団体。
リーダーのヤロスラフ・シャマティエンコさん(29)は
「ウクライナを助けてくれる日本に連帯を
示さなければと思い、呼びかけた」
と言う。
北方領土問題はウクライナでも関心を呼んでいる。
もちろん、ロシアによるクリミア半島の不法占拠という
自国の問題と重ね合わせるからだ。
ウクライナにとって日本は国の再生に18億ドルを
投入する最大規模の支援国でもある。
それだけに、安倍政権が4島のうち事実上歯舞群島と
色丹島の2島に絞って返還交渉を進める方針に転換した
とのニュースは、複雑な反応を呼んだ。
シャマティエンコさんは、安倍晋三首相がロシアの
プーチン大統領と関係を深めていることも知っていた。
「ロシアにだまされないで。
不法占拠されたのは4島なんだから」
その9日後。ドイツのミュンヘンで日ロ外相会談を取材した。
会談後ロシアのラブロフ外相は「日本が第2次大戦の結果を
認めることが不可欠」と強調した。
ラブロフ氏は4島の主権は戦争の勝者であるロシアに
合法的に移ったと繰り返す。
民主主義国際センター研究所(キエフ)の
エウゲン・ディキー研究員は
「勝者・敗者の単純な論理。
戦争に勝ったから偉大な国だと考える
政権支持層にしか届かない」
と批判する。
【占守島の戦い】
終戦日8月15日で終わらなかった戦争
8月15日。日本人なら誰でも知っている終戦の日。
しかし、戦争は終わっていなかった。
否、その後に起きた戦いがあった。
後の日本に大きな影響を与えているのに、余り聞く
ことのない戦い。
日本人なら知っていて欲しい出来事。
今回は「占守島の戦い」
占守島(しゅむしゅとう)とは、千島列島北東端の島。
南西から北東へ30Km、幅は20km程の島。
すぐ上はロシアのカムチャッカ半島。すぐ横の少し大きめ
の島は幌筵島(ぱらむしるとう)
北部に砂浜がある程度で、ほとんどが崖に囲まれている。
夏でも摂氏15度ほどで濃霧が覆い、冬はマイナス15度で
吹雪に覆われる日が多い。
1855年ロシア領になるが、1875年に「樺太・千島交換条約」
により日本領に、以後ロシアに備え日本軍が駐屯。
太平洋戦争中はカナダ、アラスカ方面からのアメリカ軍の
攻撃に備え、引き続き軍が配備された。
時代が進み1945年8月15日、日本が降伏。
第二次世界大戦が終戦となる。
しかし、
1945年8月18日午前2時半。突如ソ連軍が
占守島に上陸を開始。
占守島の日本軍と戦闘になった。
1945年2月の「ヤルタ会談」にてソ連は樺太、千島列島を
占領することが決められたが、ソ連書記長スターリンは
アメリカとの冷戦に備え、北海道すら占領せんと画策した
のだった。
占守島の戦い
8月15日の終戦をもって武装解除をしていた日本軍であるが
「自衛のための戦闘は許可する」との命令も受けていた為
上陸してきたソ連軍に速やかに反撃。
しかし、続々と上陸するソ連軍に島の北部の要所である
高台の四嶺山(しれいさん)では全滅する部隊がでるなど
危機的状況に陥っていた。
そこに精鋭の戦車第十一連隊(十一は「士」とも見えるので
士魂部隊と呼ばれていた)が救援に現れる。
第十一連隊の指揮官、池田末男(いけだ すえお)大佐。
陸軍戦車学校の教官をしていたほど戦車戦に長け
極寒の占守島でも自分で洗濯を行い当番の部下に
「お前は俺に仕えているのか? 国に仕えてるんだろう?」
と返したエピソードがある。
池田末男大佐は出陣前に
「赤穂浪士となって恥を忍び後世に仇を
報ずるか、それとも白虎隊となり民族の
防波堤として玉砕するか」と部下に問い
全ての部下が玉砕を選択。
太平洋では弱い弱いと言われた日本戦車であるが
今回は違った。
ソ連はドイツとの戦争を終えたばかりで海軍は準備不足。
大型の輸送船を持っておらず、戦車を持ってくることが
できなかったのだ。
↑日本軍の戦車部隊の中心だった九五式軽戦車と
後ろの九七式中戦車チハ。
いくら弱くても戦車は戦車。歩兵では止めることなどできず
戦況は逆転。
池田末男大佐は四嶺山の奪還に成功。
しかし乗車していた戦車が攻撃され炎上し戦死。
それでも各部隊はソ連軍を海に追い返し始め、日本政府も
アメリカ軍のマッカーサーを通して停戦を呼びかけるが
スターリンは黙殺しつづけ
戦いが終わったのは8月21日だった。
戦いの後…
ソ連軍が大きな被害を出し
「8月19日はソ連人民の悲しみの日」とも言われたが
占守島の戦いは日本軍の降伏で幕を下ろした。
スターリンの北海道占拠の計画は出だしの占守島で躓き
現在も問題になっている北方領土を占領したものの
北海道にはすでに米軍が駐屯していた。
また日本軍が戦っている間に缶詰工場などで働いていた
民間人を北海道に避難させることには成功した。
しかし、占守島で降伏した日本軍はシベリアに抑留された。
まとめ
日本軍というと悪いイメージがあるが、本当に国の為に
戦った人たち。
占守島の日本軍は玉音放送を聞き武器を捨てて
いたのに、日本の危機を救うため戦った。
彼等がいなければ、ドイツや朝鮮半島のように
日本は東西の陣営に分割支配されていたことは間違いない。
現在彼等の意思を受け継ぎ
陸上自衛隊第11戦車大隊の
戦車には「士魂」の文字を入れている