時系列
1945年(昭和20年)8月15日
玉音放送により、日本の降伏が国民に公表された日
1945年(昭和20年)9月2日
日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた
降伏文書(休戦協定)に調印した日
1952年(昭和27年)4月28日
日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により
国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と
日本の戦争状態が終結した日
4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して
日本が完全な独立を回復した日である。
朝鮮動乱(ちょうせんどうらん)
1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦
1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である
大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で
朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を
越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争に発展。
条約交渉までの経緯
1949年3月、韓国政府は
『対日賠償要求調書』では日本が朝鮮に残した
現物返還以外に21億ドルの賠償を要求
することができると算定していた。
韓国政府は
「日本が韓国に21億ドル(当時)+各種現物返還をおこなうこと」
を内容とする対日賠償要求を連合国軍最高司令官総司令部
に提出した。
日韓基本条約締結のための交渉の際にも同様の立場を継承
したうえで、韓国側は対日戦勝国つまり連合国の一員であると
の立場を主張し、日本に戦争賠償金を要求した。
サンフランシスコ講和会議参加へ希望した。
アメリカは
「朝鮮は大戦中は実質的に日本の一部として日本の軍事力に
寄与した」ため、
韓国を対日平和条約の署名国からはずした。
アメリカ合衆国の仲介
日韓交渉の背後には1951年7月頃から
アメリカ政府の主導があった。
予備会談
1952年1月9日、日韓会談直前の予備会談で日本側から
「日韓の雰囲気をよくするため」の文化財返還が提示された。
日本側は
韓国を合法的に領有、統治しており、韓国と交戦状態には
なかったため、韓国に対して戦争賠償金を支払う立場にない
と反論し、逆に韓国独立に伴って遺棄せざるを得なかった
在韓日本資産(GHQ調査で52.5億ドル、大蔵省調査で軍事資産
を除き計53億ドル)の返還を請求する権利があると主張した。
※反発した李承晩は報復として、日韓会談直前の
1952年(昭和27年)1月18日、韓国は一方的に日本海に
軍事境界線の李承晩ラインを宣言する強硬政策に出た。
第1次会談
1952年2月15日ー4月25日に行われた。
請求権問題、日韓併合条約(旧条約無効問題)
文化財返還などが議題となった。
第2次会談
1953年4月15日-7月23日に行われた。
しかし、第2次会談直前の日韓関係は険悪化。
第2次会談が開始直後の4月20日には韓国の
民兵独島義勇守備隊が島根県の竹島に駐屯した。
韓国海軍によって日本の民間の漁船が銃撃され、船長が
死亡する第一大邦丸事件が発生した。
1953年7月27日には朝鮮戦争が休戦した。
第3次会談
第3次会談は1953年10月6日-10月21日に行われた。
1953年10月21日の会談で韓国側は久保田発言を撤回し
悪かったと認めなければ会談の続行は不可能と述べた。
朝日新聞は久保田発言について日韓交渉を決裂させた原因とした。
久保田発言は1957年12月31日、藤山愛一郎外相と金裕沢大使との
会談で撤回された。