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戦艦武蔵の最後

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武蔵 (戦艦)
武蔵(むさし)は、第二次世界大戦中に建造された大日本帝国海軍
大和型戦艦の二番艦である
当時は武藏と表記された。
この名を持つ大日本帝国海軍の艦船としては3隻目にあたる。
また、武蔵は大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦でもあった。

1942年8月竣工時


           武蔵は「武蔵御殿」「武蔵旅館」と陰口を叩かれていた。
基本情報
建造所三菱重工業長崎造船所
運用者 大日本帝国海軍
経歴
計画マル3計画
起工1938年3月29日
進水1940年11月1日
就役1942年8月5日
除籍1945年8月31日
最後1944年10月24日沈没

北緯13度07分 東経122度32分
      
北緯13.117度 東経122.533分

または北緯12度48分 東経122度41.5分
その後2015年3月2日シブヤン海海底で発見
(ポール・アレンの発表による)。
要目
排水量基準:65,000トン(完成時)
満載:72,809トン(完成時)
全長263.0m
全幅38.9m
吃水10.4m
機関ロ号艦本缶12基
艦本式タービン4基4軸
150,000馬力
速力27.46ノット(公試成績)
航続距離
              
16ノットで7,200浬

乗員

兵装
約3,300名
新造時:
46cm(45口径)砲3連装3基9門

15.5cm(60口径)砲3連装4基12門

12.7cm(40口径)連装高角砲6基12門

25mm3連装機銃12基36門

13mm連装機銃2基4門

最終時:

46cm(45口径)砲3連装3基9門

15.5cm(60口径)砲3連装2基6門

12.7cm(40口径)連装高角砲6基12門

25mm3連装機銃35基105門

25mm単装機銃25基25門

13mm連装機銃2基4門

12cm28連装噴進砲2基56門

装甲舷側 410mm、甲板 200mm、主砲防盾 600mm
搭載機
零式水上偵察機・零式観測機他、最大7機

(カタパルト2基)





マル3計画
正式名称は第三次海軍軍備補充計画だが、通称として○の中に
数字を入れてマル3(まるさん)計画と呼ばれた。
軍縮条約から脱退後、初の建艦計画であり
海軍国防所要兵力整備十年構想の前半四ヵ年計画に
あたるものである。

における巨大新型戦艦建造

1937年(昭和12年)開催の第七〇回帝国議会で予算が
承認され
3月29日に計画名「A140-F6」から第一号艦、第二号艦
仮称された。
9月8日、海軍艦政本部から三菱重工業に
「A140-F6」が正式発注される。予算見積折衝を経て
1938年(昭和13年)3月29日、第二号艦(武蔵)の
建造が始まった。

姉妹艦の大和よりも遅れて起工された武蔵には
大和建造中に判明した不具合の改善や旗艦設備
充実が追加指示された。


大和を「大和ホテル」と揶揄していた。

歴代艦長
艤装員長
有馬馨大佐:1941年(昭和16年)9月15日~
艦長

1.有馬馨大佐1942年(昭和17年)8月5日~(昭和18年)6月9日

2.古村啓蔵大佐1943年(昭和18年)6月9日~1943年12月5日

3.朝倉豊次 大佐1943年(昭和18年)12月6日~1944年8月11日

4.猪口敏平少将1944年(昭和19年)8月12日~1944年10月24日

昭和18年1月22日に武蔵は大和から連合艦隊旗艦の座
譲り受け、連合艦隊旗艦になった最後の戦艦であり
太平洋戦争期間中に一番長く連合艦隊旗艦を務めた
艦でもある。


1944年10月24日
9:30大和、武蔵の見張員がアメリカ陸軍B-24爆撃機(偵察機)を発見。
10:00頃大和、能代のレーダーが100キロの彼方に敵機の大編隊を発見。
10:25アメリカ軍機約40機を見張員が発見。
しかし乱積雲の中に見失う。
10:25~10:27第一次空襲
(44機。うち武蔵への来襲機数17機)。
見失ったアメリカ軍編隊が右舷の雲間より
急襲。
被弾1、被雷1、至近弾4。
一番主砲塔天蓋に命中するも
砲塔への被害無し。至近弾により艦首水線下に僅かに漏水。被雷の衝撃により前部主砲射撃方位盤故障。浸水により右舷に5.5度傾斜するも注排水により傾斜角右1度まで回復。
主砲発射せず、副砲48発を発砲。
11:38~11:45第二次空襲(来襲機数16機)。被弾2、被雷3
至近弾5。被雷の浸水により今度は左舷に5度傾斜するも排水により傾斜角左1度まで回復。
艦首が戦闘開始前に比べ約2m沈下。
甲板を貫通した250㎏爆弾が第十兵員室で
炸裂、第2機械室の主蒸気管を破損し室内が
水蒸気で充満。火焔の侵入と重なり第2機械室は使用不能に陥る。これにより3軸運転、最大速力22ktに低下。主砲発射9発、副砲17発。
12:17第三次空襲(来襲機数13機)。被弾0、被雷1
至近弾3。被雷により測程儀室・測深儀室破壊。前部戦時治療室がガス充満の為使用不能。
主砲発射13発、副砲43発。戦闘後、司令部より「コロンへ向かえ」との命令が下る。
12:23第四次空襲(来襲機数20機)。12時53分
被弾4、被雷4。主砲発射15発、副砲37発。
再び右舷に大きく傾斜するも排水により傾斜角右1度まで回復。艦首、更に3m沈下したため
トリム修正の為の注水を行う。
最大速力16ノット。艦隊輪型陣から落伍。
司令部から「付近の港に退避するか浅瀬に乗り上げ適当なる応急対策を講ぜよ」と下命。
「武蔵の北方に在りて警戒に任ぜよ」との命令に従い、栗田艦隊第二部隊の駆逐艦清霜、浜風、重巡洋艦利根が護衛に付く。
13:15第五次空襲(来襲機数0機)。艦隊輪型陣から
離脱していたため攻撃を受けなかった。
アメリカ軍機は大和、長門に攻撃を集中した。
なお武蔵は大和への援護射撃で5機撃墜を
報告している。主砲7発発射。
14:45~15:21第六次空襲(来襲機数75機)。主砲発射10発
副砲58発。集中攻撃を受け、爆弾10発以上
魚雷11発以上、至近弾6発以上を受け大火災を起こす。またしても左舷に10度傾斜、取舵と注排水により左6度まで回復した。
艦首更に4m以上沈下し一番砲塔左舷側まで
波で洗われる状態となる。

前部艦橋にも直撃弾、航海長・高射長など
准士官以上11名を含む57名が戦死。


猪口艦長も右肩に重傷を負うも指揮続行。
これ以上の戦力発揮は不可能と判断し
司令部へ摩耶乗組員の生存者の移乗を打診。
17:30頃摩耶の乗組員の生存者と武蔵乗組員の負傷者が舷側に接弦した駆逐艦島風に移乗。
1軸のみ使用可能で、6ノットにて微速航行。
19:15傾斜角暫時増大し左舷12度となり傾斜復旧の見込み無し。
総員退去用意下命。軍艦旗降下
19:30傾斜角30度。総員退艦命令。
19:35左舷に転覆、連続爆発2回
艦首より沈没し始めた。沈没位置東経122度32分・北緯13度7分・水深800m。



武 蔵 撃 沈

武蔵はアメリカ海軍機の攻撃により、推定雷撃20本
爆弾17発、至近弾20発以上という猛攻撃を受けたが
艦前部を主に両舷の浸水がほぼ均等で、当初左右方向へ
の傾斜が僅かまたは復元可能であったこと、アメリカ軍の
攻撃に時間差があったため艦体の沈降に伴って被雷個所が
ずれていったこと等が影響し、被弾数に比べて長時間交戦
きたものと推測される。

ちなみに、アメリカ軍はこの戦闘を教訓として1945年(昭和20年)
4月の天一号作戦時の大和への攻撃を左舷に集中させたと
されるが、アメリカ軍側にそれを実証する資料はない。

生存者

10月25日
駆逐艦清霜と浜風に乗った武蔵の生存者は
マニラ海軍病院分院に収容された100名をのぞき
フィリピンのコレヒドール島に上陸した。

彼らは加藤憲吉副長の名字をとって「加藤部隊」と呼ばれた。

負傷者数名が重巡妙高に乗艦してシンガポールに向かったが
彼らの運命は不明である。

コレヒドール島の生存者達は食糧、医薬品も満足に与えられず
厳しい環境に置かれていた


その最中、加藤副長や武蔵幹部将校が、残務処理手続きとして
司令部に向かったまま日本本土に帰ったとの連絡があり
指揮官達を失った「加藤部隊」では暴動寸前の事態になった
という。


一方で
加藤副長は南西方面艦隊司令部の有馬馨少将(武蔵初代艦長)
と会議を行い、輸送船「さんとす丸」(140m、8500トン)で
420名の日本帰国を決定したと証言する士官もいる。

11月25日午前1時、さんとす丸は
第38号哨戒艇、第102号哨戒艇、第33号駆潜艇に護衛されて
バシー海峡を通過中、米潜水艦アトゥル(AGSS-403)の
魚雷攻撃を受けた。

この攻撃で魚雷2本が命中し、大爆発を起こしたさんとす丸は
船体が切断されて沈没した。

第38号哨戒艇も沈没したため、救出されるまで時間がかかった。
結果、沈没と長い漂流によって
武蔵の生存者420名中300名が戦死した。
救助された120名は台湾の高雄警備隊に配属されて終戦を
むかえた。

12月6日、180-200名が空母隼鷹で日本へ向かったが
隼鷹は12月9日に米潜水艦シーデビルの雷撃で被雷し
武蔵の生存者を慌てさせた。

さらに、佐世保から横須賀への移動中や、横須賀海兵団で
の隔離生活でも、監視の番兵がついていたという。
この他にも傷病者10名が病院船氷川丸によって日本に帰国した。

だが、約1000名の武蔵の生存者は
日本に戻れずクラークフィールド航空基地作業隊に編入された。

彼らはそのままフィリピン守備隊に残され、陸戦隊として
マニラ市街戦に参加させられたりしたが、その多くは戦死した


その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も
少なくなかった。
生還者は56名だったとされる。



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