【次世代の党】 中山 恭子(なかやま きょうこ、1940年1月26日 ‐ )は 在ウズベキスタン特命全権大使、内閣官房参与 武勇伝
中山恭子議員「保守速報さん
記事にしていただいてありがとうございます。
次世代の党は、これからもタブーに挑戦していきます」
https://www.facebook.com/kyokonakayama1940/posts/323891191130349
日本の政治家。次世代の党所属の参議院議員(2期)。
国連改革欧州諸国担当大使、内閣総理大臣補佐官
(北朝鮮による拉致問題担当)、内閣府特命担当大臣
(少子化対策・男女共同参画担当)、拉致問題担当大臣
たちあがれ日本参議院幹事長代理などを歴任。
中山恭子氏がウズベキスタンの大使だった時
日本人の鉱山技師4人が、タリバンに拉致された。
中山氏は通訳の二人だけで、タリバンの基地に向かった。
絶対に来れないような山中に丸腰で来た
日本人に驚愕したタリバン側は、中山氏の人間力に
感服し、無条件で技師4人を解放した」
→マスコミは報じない
https://twitter.com/shounantk/status/387501224473288704
中山 成彬(なかやま なりあき、1943年(昭和18年)6月7日 - )は
日本の政治家、大蔵官僚、衆議院議員(7期)
次世代の党両院議員総会長兼代議士会長。
文部科学大臣(第5代・第6代)、国土交通大臣(第10代)を歴任。
キルギスにおける日本人鉱山技師人質事件
中山成彬オフィシャルブログ
大使として赴任して二週間も経たない頃
ウズベキスタンの隣国キルギスで日本人の鉱山技師4名の
人質事件が発生した。
犯人は当時まだよく知られてなかったタリバン一味。
現地は4千メートル級の山々が連なり、国境があって
なきが如き山岳地帯。
犯人達はすぐ人質を
連れて隣のタジキスタンに移ったが、タジキスタンは
中山大使の兼務国だった。
そんな事件が起こっていることも知らない私に深夜2時
恭子から電話が掛かった。
「外務省は事件の起ったキルギス政府に任せたから
ウズベキスタン大使館は動くなというが、
犯人達は日本政府が交渉の正面に出てこなければ
明日から一人ずつ撃ち殺すといっている、
どうしたらいいだろうか」。
日頃は沈着冷静な恭子の声が心なしか上ずって
聞こえ、事態の緊迫感が伝わってきた。
とっさの事だったが
「在外邦人の生命を守るのは第一に現地の大使
の責任だろう、外務本省が何と言おうと、1%の可能性
でもある限り最大限の努力をすべきだろう」と答えたが
心底心配だった。
それから約2ヶ月、少数の大使館員は昼夜を分かたず
情報収集やお願いに走った。
必死に救出に当たる中山大使の話を聞いて
カリモフ、ウズベキスタン大統領がタジキスタン政府に
強く要求してくれ、無事救出する事ができた。
たくさんの国と国境を接する中央アジアでは
国家として国民を守るのは
当たり前のことなのだ。
のちに、北朝鮮の拉致被害者は国家として北に
帰さないと主張した恭子の原点がここにある。
今に至るまで、カリモフ大統領と中山恭子の信頼関係は
続き、国連常任理事国入りやオリンピック
招致にもいち早く賛同してくれている。
最終場面では恭子大使自らタリバンの集結地に
直談判に赴いた。
髭面のタリバンが大勢屯しているのを見て
一緒に行った男達は足がすくんで前に
進まなかったという。
女性は強い
一人でタリバンの司令官と対峙した
中山大使だったが、話のきっかけは恭子が
国際交流基金の時作製して世界中に配った
あのNHKの朝のドラマ「おしん」のCDだったと
いうから面白い。
司令官がアフガニスタンで戦っていた頃に見たという。
時差4時間、1日の仕事を終えて家に帰り、10時頃電話
してくる。
こっちは深夜2時、寝不足になったのも今は懐かしい。
無事解放された人質は
長期の拘束で疲労困憊していたにも拘わらず
歩いたり、ヘリコプター、飛行機を乗り継いでキルギスまで
連れて行かれ、キルギスで解放されたことにするなど
外務省は最後まで体裁を繕った。
NHKのかつての人気番組プロジェクトXに
出したいような救出劇だった。
http://nakayamanariaki.cocolog-nifty.com
/blog/2013/07/post-f7ab.html
日本人の為に命の危険を顧みず行動し
拉致された人質を取り戻しました。
中山成彬議員がおっしゃるように
「NHKのかつての人気番組プロジェクトXに
出したいような救出劇だった」
のに、報道しないのは、マスコミからしたら都合が
悪いんでしょうかね。
こういうまともな政治家がいたら困ると?
ここまで人の為に動ける方はそうはいないと思います。
多くの方にもっと知られるべき政治家ですね。
ポチッとクリックお願いします