哀れなる朝鮮戦争①
朝鮮半島は、北と南に分断されていますが、実は大東亜戦争が終結した直後
昭和20(1945)年9月6日に、統一朝鮮(北と南の両方がひとつの国になった朝鮮)
が樹立されていたのです。
国名を、「朝鮮人民共和国」といいます。
戦前の朝鮮は、日本に併合されていましたから、南北の切り分けなんてな
かったのです。
そこには朝鮮総督府があり、その総督府の機能が、そのまま朝鮮建国に結び
つく筈だった。
朝鮮総督府には、呂運亨(ヨ・ウニョン)という朝鮮人がいて、朝鮮建国準備委員会
を設立し、半島統一国家の建設を企図し、実際に「朝鮮人民共和国」
が建国宣言まで行ったのです。
ところが樹立宣言の翌日に上陸して来た鬼畜米占領軍は、半島に勝手に軍政を
ひいてしまいます。
そして呂運亨率いる「朝鮮人民共和国」も「朝鮮建国準備委員会」も否認して
しまったのです。
この否認にはひとつの理由があります
後に韓国の初代大統領となる李承晩(イ・スンマン)です。
李承晩は明治8(1875)年生まれの朝鮮の独立運動家です。
生家は、李氏朝鮮の初代王である太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の
末裔とされていますから、要するに両班(りゃんばん、朝鮮の貴族)の
家にあたります。
李氏朝鮮の時代というのは、人口でいったらほんの一握りしかいない朝鮮貴族の
両班が、民衆に対して絶対的権勢を振るった時代ですから、彼らにしてみれば
日本によって民衆に力を与えられるのは憎くて仕方がない。
日韓併合によって朝鮮半島が日本統治になると、李承晩は上海に渡り、そこで
「大韓民国臨時政府」を樹立して、勝手に初代大統領を名乗っています。
これが大正8(1919)年のことです。
さすがにことのときは、日本も怒り、憲兵隊が李承晩を逮捕した。
日本はアジアの独立、アジアの欧米による植民地支配からの脱却、そして人種
平等を目指して戦っていたのです。
人種の平等というのは、人間の平等の精神でもあります。
どんな人でも、努力をすれば、相応の地位も名誉も与えられる。
単に権威の上にあぐらをかくような存在は、否定される精神でもあります。
これに対し、李承晩が抱いていた思想は、朝鮮半島は両班のものであるという
思想です。
朝鮮半島の人も富も、すべては両班のものでなければならない。
これは、日本の大東亜共栄の思想とは全く異なるものです。
日本の憲兵は、李承晩に対し、理を諭し、情をもって接するのだけれど、李承晩
は火病を起こして翻意しない。
あまりのことに腹を立てた憲兵が、その李承晩に平手打ちをしたのだそうです。
このたった一回の平手打ちが、実はその後の韓国と日本の関係を決定づけた。
李承晩は、実は太宗の長男の系譜とはいっても、16代目にすぎません。
家は簡単に言ったら、没落貴族でしかない。
彼にとっての誇りというのは、自分が両班である、というその一点に集約
されている。
人から平手打ちなんてもらったことのない李承晩は、生涯にわたって、その平手
打ちを逆恨みし続けたのです。
当時は、日本人の間では、平手打ちなんてのはあたりまえの習慣です。
平手で相手のホッペタを、ピシャリと叩くのだけれど、平手打ちというのは、打た
れた側は痛みはあっても怪我はしません。
そして打った側も、手のひらが痛い。
打つ側の手の平の痛みは、打つ人の心の痛みでもあります。
その心を素直に感じることで、打たれた側も反省をする。
日本ではあたりまえの、そうした習慣が、朝鮮人の李承晩にはまったく通じな
かったどころか、彼は生涯それを個人的怨恨として逆恨みし続けたのです。
李承晩は、憲兵から釈放されたあと、渡米し、そこで米国大統領ならびにパリ
講和会議の米国代表団に宛てて、「朝鮮半島を国際連盟の委任統治領にして
もらいたい」という請願書を提出しています。
朝鮮半島が現実に「委任統治領」になっていたら、おそらく今の韓国の発展は
ないことは、火を見るよりもあきらかなことと思います。
38度線の北側には、この頃すでにソ連が進駐をはじめていました。
この連中にずいぶん日本人婦女が強姦され殺されたのだけれど、彼らはそれだ
けではなく、10月までに「各地で自発的に生まれた」という名目の「人民委員会」
を組織し、これらを管理下に置いて、朝鮮北部を占領した。
ソ連が朝鮮人たちを支配するに際しては、朝鮮語を話す者たちを、ソ連兵の手足
として使う必要があった。
その手足となったのが朝鮮人の共産主義者たちで、ソ連は彼らに旧日本軍から
押収した銃器と金を与え、自分たちが強姦したあとの日本人女性と食い物とを
与えた。
飯が食えて、金がもらえて、いままで支配者側だった高貴な日本人女性を欲しい
ままに強姦できて、金持ち日本人の財物も奪える。
そういうことを喜ぶ馬鹿者どもが、喜んで「人民委員会」のメンバーになったのです
同じ頃、シナでは、蒋介石率いる国民党の敗退が始まっていました。
なぜいきなり敗退しはじめたかといえば、米英が、蒋介石率いる国民党への支援
を打ち切ったからです。
米英は、それまで蒋介石率いる国民党に、日本と戦わせるための豊富な軍事物資
や食糧、金銭などの支援を行ってきたのだけど、日本との戦争が終戦となったの
で、彼らはもう「用済み」になったのです。薄情なものです。
蒋介石の国民党は軍閥です。米英の軍事的経済的支援があったから人を集め
得たのです。
支援物資の補給を断たれたら、もはや存続は困難です。
そこへソ連から旧日本軍の装備を無償で譲り受けた毛沢東率いる八路軍
(共産党)が襲いかかった。
勝敗はおのずと明らかです。補給を断たれた国民党はシナ各地で八路軍に追
われ、シナは赤化が目前となっていったのです。
ソ連は、毛沢東率いる八路軍に豊富な武器や食料を与えたやり方と同じ方法で
朝鮮半島を我が物にしようとしました。
ここで使われたのが金日成(キム・イルソン)です。
そして朝鮮半島の米国進駐軍による半島の国家基盤が定まらないうちに
金日成は、朝鮮北部にはいって昭21(1946)年2月8日、「朝鮮臨時人民委員会」
を設立したのです。
朝鮮半島に、統一朝鮮国として成立した呂運亨(ヨ・ウニョン)率いる
「朝鮮人民共和国」が、わずか5日で崩壊した背景にも、李承晩がいます。
彼は、米国内でロビー活動を展開し、新たに設立された「朝鮮人民共和国」には
ソ連に煽動された共産主義者たちが混入している。だからそういった者たちと一緒
に統一朝鮮を作ることには疑問があると主張したのです。
李承晩は、金日成率いる共産主義者たちを駆逐したあとに、米国進駐軍
の力で統一朝鮮を建国すれば良いとした。
ソ連は、そんな抵抗があるのは百も承知。
金日成にしても、せっかく朝鮮半島北部を武力制圧したのに、そこから追い出
されたのでは元も子もない。
朝鮮半島の北側には、日本が建設した工業地帯がありました。
朝鮮半島の富のほとんどを北側が握っていた。
そこを金日成は押さえたのです。
富があり、武力があり、ソ連の完全なバックアップ体制もある。
そんな北朝鮮を、金日成が手放すわけがない。
李承晩に引きずられた米国が、半島内の共産党員に手こずっている間に
金日成は、さっさと「朝鮮臨時人民委員会」を設立してしまったのです。
半島北部での共産国家設立の動きに対し、米国に亡命していた李承晩は
朝鮮半島での反共産勢力による早期国家設立を米国に迫ります。
そして北朝鮮に遅れること16ヶ月、李承晩をリーダーとする「南朝鮮過渡政府」が
昭和22(1947)年6月に誕生しました。
米国は、共産主義者と民主主義者が対立を深める朝鮮半島について、同年11月
国際連合に半島統治問題を提起します。
北の金日成は、この動きに危機感をつのらせた。
金日成は、翌昭和23(1948)年2月8日に「朝鮮人民軍」を創設します。
そして同月26日に、北緯38度線以北に「朝鮮民主人民共和国」の成立を
一方的に宣言した。
せっかく国連に話し合いを提案したのに、米国は、これを激しく非難します。
けれど非難されて黙っている金日成ではありません。
彼はこれに対抗して実力行使に出たのです。
なんと彼は、南半部への送電を全面的に停止する。
当時南半部の電力は、日本によって建設された北部のダムによる発電に
頼りきっていたのです。
同時に半島南端にある済州島にいた南朝鮮労働党の共産ゲリラが、これに
呼応して武装蜂起した。
李承晩は、すぐさま暴動の鎮圧に乗り出します。
済州島の共産ゲリラは、武器を持っていなかったのです。
そこへ李承晩は軍を派遣し、済州島民8万人を虐殺してしまいます。
これを、昭和23(1948)年の済州島四・三事件といいます。
実力行使によって暴動を陳圧した李承晩は、同年8月15日、「大韓民国」の成立
を宣言します。
金日成はこれに対抗して翌月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」建国を宣言した。
これにより、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となったのです。
昭和25(1950)年1月12日、米国トルーマン政権下のディーン・アチソン国務長官が
次のように発言します。
~~~~~~~~~
米国が責任をもつ防衛ラインは、
フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までである。
それ以外の地域は責任をもたない。
『朝鮮半島切り捨て政策』をとっつた。
この発言の意図は、ひとつには、あくまで米国の国防政策において太平洋の
制海権は絶対に渡さないというもの、もうひとつ意味は、李承晩を抑え込む意図
だといわれています。
李承晩は、上海で統一韓国臨時政府樹立を行い、日本の憲兵隊に逮捕されて
平手打ちを食わせられたときから、日本に対して個人的な怨恨を持っています。
そしてかねてより、報復的、敵対的発言を重ねていたのです。
(駐韓米国軍と駐日米国軍の対立的因縁有り)
そして李承晩は、あくまで朝鮮半島の統一とそのための戦争を頑強に主張して
いたのです。
米国政府は、李承晩(朝鮮人)にいい加減、手を焼いていた。
竹島強奪
(豆知識)
竹島強奪の真相(駐韓米国軍と駐日米国軍の対立的)
北朝鮮軍に敗退を期して駐日米軍の指揮下に下った駐韓米軍の陰謀。
『竹島占領前年の51年7月から朝鮮戦争の休戦会談が進行していた。
当時、在韓鬼畜米軍は「将来、また韓国切り捨て戦略をやるのではないか?」
と危惧した。
在韓米軍は単なる“張子の虎”にすぎず、いざという時は在日米軍にすべてを託す
という情けない存在になりさがっていた。
おいしいところは在日アメリカ軍が持っていく」という構造に、在韓米軍関係者は
フラストレーションを覚えていたと思われる。
竹島を在日アメリカ軍の管轄のままにしておくのはマズい!
日本独立が現実化し、ますます重宝されることになる在日米軍に対する
在韓米軍のやっかみ&危機感!!
「北朝鮮が攻撃してきたら日本へ撤退せよ」というマヌケな命令を厳守せざるえ
なかった在韓米軍“竹島を在日米軍から奪い取る”
ことは組織を賭けた懸案であった。
直接的に在韓米軍が動くのはまずい。
そこで、頭の弱い李承晩を動かして「韓国軍の単独行動」として黙認するとした。
これが竹島問題の真相である。』
米国は、韓国の軍事力の大半を米国で請け負うことで、韓国軍が単独で
重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ごうとしていたのです。
韓国に僅かな兵力しか与えないことで、とにかく李承晩の暴発と半島内での紛争
を防ごうとしたのです。
一方、このことは、北の金日成にとっては、南朝鮮の李承晩による北侵攻の危機
を抑え込む好機を意味します。
いまなら半島全体を北のものにできると判断した金日成は、昭和25(1950)年3月
ソ連を訪問し、スターリンに李承晩との開戦許可を求めます。
スターリンは、毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認する。
同時にソ連軍事顧問団に、南侵計画である「先制打撃計画」の立案を命じます。
スターリンの考えは、金日成の南進によって朝鮮人同士で戦わせ、万一、金日成
がしくじることがあっても、ソ連は直接には手を下さず、毛沢東に後ろ盾をさせよう
というものです。
同年5月、金日成は支那に毛沢東を訪ねます。
そして「北朝鮮による南半部への侵攻に際し、中華人民共和国がこれを援助する」
という約束を取り付けた。
こうして始まったのが、朝鮮戦争です。
昭和25(1950)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始された。
宣戦布告なんてありません。いきなり侵攻がはじまった。
開戦の30分後、11万人の大軍からなる北朝鮮軍が、38度線を越境します。
北朝鮮は、現在に至るまでこの開戦を「韓国側が先制攻撃してきた」
と主張しています。
けれどこの主張は、ソ連崩壊後のロシア政府でさえ、公式に否定している。
前線の韓国軍は、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていただけです。
どういうことかというと、韓国軍兵士の多くは、6月の田植えのために、ほとんど
が田舎に帰っていたのです。(日本の戦国時代か?)
しかもソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部が二日酔いで
登庁すらしていなかった。
李承晩大統領への「北来襲」という報告すら、奇襲後6時間経過してから、やっと
韓国政府に届いたという始末です。
手薄な前線の韓国軍には、対戦車装備すらありません。
そこに北朝鮮軍は、ソ連から貸与されたT-34戦車の大部隊を中核に、次々
押し寄せる。各所で韓国軍は総崩れとなります。そして潰走した。
開戦3日目の6月28日には、韓国の首都ソウルが陥落した。
住民に多くの犠牲を出しながら、韓国政府は、首都をソウル南方の水原に移した。
このときに有名な事件があります。
ソウル陥落の際、李承晩は漢江にかかる橋を爆破したのです。
漢江にかかる橋を爆破すれば、北朝鮮のソ連製戦車部隊の侵攻を遅らせること
ができる。
それだけ南朝鮮政府は、逃げおおせることができる。
だから爆破したのだけれど、この爆破時、漢江の北側のソウルの街には
まだ多数の韓国軍兵士や一般市民が取り残されていたのです
孤立した韓国軍兵士とソウル市民は、北朝鮮軍によって随所で虐殺された。
このとき、どのようなことが行われたかは、歴史の記録に残っていません。
ただひとついえるのは、圧倒的火力でソウルの街を征服した北朝鮮の兵士たちは
およそ人間ができる最悪の鬼畜非道を行った、だからこそ記録すらされていない
ということは、容易に推定できることではないかと思います。
すくなくとも、北の兵士たちが、戦時捕虜となった韓国兵士や、婦女子を含む
一般市民を手厚く保護したという記録は、まったくありません
ゴキブリ駆除隊
そこにマッカーサーが、東京からやってきたという記録が残っています。
水原は、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。
マッカーサーは米軍の派兵を韓国軍に約したけれど、その日のうちに東京に
帰ってしまっています。
東京に帰ったマッカーサーは、米国政府に在日米軍2個師団を投入するように
進言しました。
しかし戦争の再発をおそれたトルーマン大統領は、米軍参戦を許可しない。
それでも食い下がるマッカーサーに、トルーマンは、ようやく1個師団だけの
派兵を許可します。
大統領の許可を得たマッカーサーは、日本に駐留していた第24師団の第21
連隊第1大隊を基幹とする師団を水原市に派遣します。
部隊は水原南方の烏山の高地に陣取って北朝鮮軍を待ち受けた。
対する北朝鮮第4師団は、ソ連製T-34-85戦車やSU-76M自走砲などの車輌を
先頭に烏山に迫ります。
このとき派遣された米第24師団は、大東亜戦争での経験を持たない、新たな
徴用兵たちです。
旧日本軍との戦闘経験を持つ精鋭は、すでに本国に帰還していたからです。
北朝鮮軍を視認した米軍は、バズーカなどで攻撃を加えます。
しかし相手は、ソ連の誇る新鋭T-34/85戦車です。
バズーカ砲ごとできは、まったく歯が立たない。
北朝鮮軍の戦車と歩兵は各所で戦線を突破し、米軍は総崩れとなって
大敗してしまう。
マッカーサーは、米精鋭部隊の派遣を要請するけれど、戦争に倦んだ米国世論
は、これを許しません。
トルーマン大統領は、できたばかりの国連安保理に諮り、第二次大戦戦勝国諸国
での多国籍軍を編成し、これを朝鮮半島に送り込みます。
けれど、明確な指揮命令系統のない、混成の国連軍は、各所で敗退してしまう。
李承晩は、水原も捨て、南へ南へと、逃げました。
このとき敗走する李承晩は、自国を守れず潰走しながら、武器を持たない
一般市民を、韓国保導連盟員や共産党関係者だと決めつけ、一方的に20万人
以上の韓国国民を虐殺しています。
武器を持った北朝鮮軍の前では、味方を見捨ててでもひたすら逃げ隠れした
李承晩は、武器を持たない自国民に対しては、平気で虐殺の限りを尽くしたのです。
一方北朝鮮は、忠北清州や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官
地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などと難癖
をつけて大量に虐殺しました。
北の金日成、南の李承晩は、互いに武器を持たない一般市民を虐殺しあって
いたのです。
そしてこの虐殺から逃れてボートピープルとなった朝鮮人たちが、大挙して
日本に逃げてきて、いまの在日朝鮮人問題をひき起しています。
②に続く・・・・・