中国人民解放軍の戚建国副総参謀長が先月31日から3日間、シンガポールで
開かれたアジア安全保障会議で、いかつい軍服に不似合いな協調ポーズを
振りまいた。
「中国は平和を愛する国家だ。海軍は周辺国に
挑発的な行為をとったことはない」
そんな戚副総参謀長が、わが尖閣諸島(沖縄県石垣市)の領有権問題を持ち
出し、棚上げ論を打ち出した。「われわれより知恵のある次世代の人に解決
してもらうべきだ」と、1970年代に当時の最高実力者、トウ小平が述べた言葉
を繰り出した。
仮に日中の「棚上げ合意」があったとしても、彼ら自らが92年制定の領海法
で“合意”を破ったことはおくびにも出さない。
棚上げ論の表明は、中国が協調路線にカジを切ったようにみえるが、実際
には軍による「世論戦」のマジックであろう。
副総参謀長は「無条件に妥協することはなく、国家の核心的利益を守る決心
が揺らぐことはない」と保険をかけた。
浄瑠璃の国性爺合戦ではないが、「証拠なくてはうろんなり」である。
フィリピンのガズミン国防相が「南シナ海で実際に起きていることと
全く違う」とマジックの裏を突いた。
つい最近、張召忠少将が1隻の新型揚陸艦があれば「1カ月もたたずに
南シナ海の全島を奪回できる」と威嚇したことを忘れない。
無慈悲なる四五天安門をわすれるな
六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)とは、1989年6月4日に、同年4月
の胡耀邦の死をきっかけとして、中国・北京市にある天安門広場に民主化を
求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し
中国人民解放軍が武力弾圧
(市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺したと
の報告がある)
多数の死傷者を出した事件である。
この出来事は、抗議者からの異議を寛大に取り扱っていた胡耀邦の死がきっ
かけとなった。
胡耀邦の葬儀までに、10万人の人々が天安門広場に集まった。
抗議運動自体は、胡耀邦の死の4月15日から続いていた。
統一がなされておらず、指導者もいなかった抗議の参加者の中には
中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と
経済の変革を要求する声に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。
デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに
上海市を含めた中国中の都市に波及していった。
1989年6月の初頭、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して
実弾を発射し、天安門前を一掃した。
ニューヨーク・タイズのニコラス・D・クリストフ (en:Nicholas D. Kristof) は
「正確な死亡者数は、おそらくは分かっていないだろう。
そして、数千の人間が証拠を残すことなく殺されたかもしれない。
しかし、今現在入手できる証拠に基づけば、400人から800人の民間人と
一緒に、およそ50人の兵士と警官も殺されたことは確かなようだ」という。
衝突のあと、中国当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を
実行し、自国の周辺でのほかの抗議も厳重に取り締まり、外国の報道機関を
国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。
天安門広場に集まった抗議者たちに対して公然と同情した総書記の趙紫陽
(当時)は共産党から追放され、数人の高級党員の監視による自宅軟禁下に
置かれた。
通常、「天安門事件」という場合はこの事件を指す。
中国においては1976年4月5日に周恩来が死去したときに発生した
四五天安門事件(第一次天安門事件)と区別して「第二次天安門事件」とも
呼ばれる。
抗議者に対する中国共産党政府による武力弾圧に対しては、広範な国際的
非難が集まった。
犠牲者の数は後述のように諸説あり、正確な数字は分かっていない
武力弾圧
6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが
西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が
近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。
実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員
輸送車が集結し始め、完全武装を行った兵士が配置に就いたことが西側の
外交官や報道陣によって確認された。
その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示に
よって、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を中心
にした民主化要求をする学生を中心とした民衆に対して投入された。
一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国
共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で争乱を繰り返す民衆に対して
無差別に発砲した。
武力鎮圧は数時間続き、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は
最終的に人民解放軍の説得に応じて広場から退去した
(スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの
退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた)
なお、学生運動の主立ったリーダー達の一部は武力突入前にからくも現場から
撤収し、支援者らの手引により海外へ亡命した。
武力鎮圧の模様は、イギリスのBBCや香港の亜州電視、アメリカのCNNを
はじめとする中国国内外のテレビ局によって世界中に中継され、無差別発砲
によって市民の虐殺を伴う武力弾圧に対して世界中から多くの非難が
浴びせられた。
武力鎮圧のために進行する中国人民解放軍の戦車の前に1人の若者が
飛び出して戦車の進路方向の前に立ち、その戦車の走行を阻止しようとした男性
の映像も放映された(無名の反逆者)。
武力弾圧に動員された中国人民解放軍の部隊は、「北京に知人、友人が
少ないため、北京市民への無差別発砲に抵抗が少ない」という理由で戒厳令の
施行後に地方
(新疆ウイグル自治区など)から動員された部隊が中心と報道された。
天安門事件を取材したジャーナリストの相馬勝は、天安門広場の付近の路地を
通る途中、広場から逃げてきたという眼鏡をかけた血まみれの学生が市民を
奴らは3歳の赤ん坊を撃ったんだ。
同級生の女子学生をいま病院に送ってきたところだ。
彼女は死んだ。
血だらけになって…。
同級生のなかには体を吹き飛ばされた者もいる。
奴らは鬼だと涙ながらに訴えているのを目撃した
(この学生の白いワイシャツは赤い血で染まっていたという)。
相馬がその学生の言葉をメモしてから広場へと進む途中、相馬の姿を見た
中年の男性から「お前は日本人の記者か?」と話しかけられた。
男性は茫然自失した様子で
「軍が撃った。こんなことは許されない。
中国はもう終わりだ。
鄧小平を許さない」と語ったという。
死傷者
中国共産党の発表では、「事件による死者は319人」となっているが、この事件
による死傷者については上記の中国共産党による報道規制により客観的な
確定が不可能であり、数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり定
かではない。
また、天安門広場から完全にデモ隊が放逐されたあとに人民解放軍の手に
よって死体が集められ、その場で焼却されたという情報があるように、事件後
に中国共産党によって多くの死体が隠匿されたという報道もある。
また、約300名の活動家がパリに亡命した。
ウィキリークスが2011年8月に公開した米外交公電の1990年3月の内容には
軍兵士は下された「無差別発砲」命令を受けて、1000人以上の学生を死亡
させたことが記されていた。
またソ連の公文書に収められているソ連共産党政治局が受け取った
情報報告では、「3000人の抗議者が殺された」と見積もられている。
無名の反逆者(むめいのはんぎゃくしゃ)は、1989年6月4日に中華人民共和国
で起こった天安門事件の直後、天安門広場に通ずる長安大街の路上で
撮影された、戦車の行く手を遮る映像に登場する男性のこと。
氏名不詳のため、「無名の反逆者」
(英: the Unknown Rebel)、「戦車男」(Tank Man)
などのニックネームで呼ばれている。
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