3 : 倭の五王の時代における朝鮮半島
倭の五王がそれぞれ、誰なのかという問題はここでは措く
として、仁徳天皇の即位から雄略天皇の崩御にいたる
時代(313年-479年)を、ここでは倭の五王の時代と呼ぶ
ことにしよう。
この時代
倭が積極的に朝鮮半島で軍事活動を行っていたことが
支那および朝鮮側の資料から判明している。
例えば、好太王碑文は
好太王が倭の侵略を撃退したことを好太王の功績として
誇示しているが、それは、倭が5世紀の初めには、帯方郡
に侵入するぐらい、朝鮮半島で活躍していたということを
図らずも後世に伝えることとなった。
以下、倭関係の重要部分を訳出しよう。
百済と新羅は、もともと高句麗の属民であり
朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年[391年]に海を渡って来て
百済を破り、[新]羅を[潰し]、倭の臣民にしてしまった。
六年[396年]丙申に、好太王は、自ら大軍を率いて
百済を討滅した。
[中略]
永楽九年[399年]百済は約束を破って倭と和通した。
そこで好太王は百済を討つため平譲に南下したが
そのとき新羅が使者を派遣し
「多くの倭人が新羅の国境に集結し、城池を破り
潰し、高句麗の奴客である新羅の民を倭の臣民と
したので、王のもとに帰還し、命を請いたい」と
好太王に申し上げた。
[中略]
永楽十年[400年]庚子、好太王は、歩騎五万を
派遣して、新羅を救った。
男居城から新羅城にいたるまで、中には倭軍が
いたが、高句麗軍が到来すると、倭軍は退いた。
[中略]
永楽十四年[404年]甲辰、倭は無道にも、
帯方郡に侵入した。
[中略]
好太王は武力平定を求め、軍を推し進め
倭軍を潰敗させた。切り殺した者は無数だった。
南朝鮮史学界の主流派は
ここに登場する倭を伽耶(加羅)の傭兵と解釈することで
倭が朝鮮半島の南部を支配したことを否定する。
金泰植も
倭軍は、「朝鮮半島内で独自的な行為をするというよりは
伽耶軍隊の下級単位として編成され活用された」
と主張する。
しかし
好太王碑文には、「倭」が9回も登場するのに
「任那・加羅」は、倭軍が退却した場所として1回出て
くるだけである。
また9回中6回は「倭」、2回は「倭寇」として言及され
「倭人」という表現は1回しか出てこない。
倭人が加羅の傭兵ならば、「倭人」という表現しか出て
こないのではないか。
安羅は、「安羅人」という形で3回出てくるが、この考えで
行くと、むしろ安羅人の方が倭の傭兵として活用されて
いたということになってしまう。
この時代の
『三国史記』を見てみよう。397年に、百済の阿莘(あしん)王
は、王子の腆支(てんし)を人質として倭に送り、402年に
新羅の奈忽王は、王子の未斯欣(みしきん)を人質として
倭に送ったとある。
反対に倭が朝鮮に皇子を人質として
送った事実はない。
ここから
当時、加羅のみならず、百済や新羅も倭に対して従属的
な立場にあったことがわかる。
それを認めることは朝鮮人のプライドが許さないのだろうが
好太王碑文は、倭が百済と新羅を自分の臣民にしたと
書いているのだから、素直にそう受け取るべきである。
さらに、この時代を記録した
『宋書』を読めば、倭が朝鮮半島南部で軍事的支配権を
持っていたことを再確認することができる。
『宋書』の東夷に関する記事には
高句麗と百済と倭の項目しかない。
倭の武(おそらく雄略天皇)は
「海を渡って95国を平定した」と主張して
「使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事
安東大將軍、倭國王」を自称し、順帝によって、そのうち
「百済」だけを除く
「使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事
安東大將軍、倭王」に叙された。
加羅は任那の秦韓(辰韓)は新羅の、慕韓(馬韓)は
百済の旧称と考えられる(弁韓はないことに注意したい)。
倭が、朝鮮半島南部に影響力を持ったことは、文献上だけ
でなく、考古学的証拠によっても確認できる。
例えば、朝鮮半島南部で
日本特有の前方後円墳が朝鮮半島で発見されていること
日本の糸魚川周辺でしか産出しない
ヒスイ製勾玉が大量に出土していること、日本でしか自生しないクスノキやコウヤマキの木製品が見つかっていることなど
をがその例である。
4 : 任那日本府滅亡の原因
以上
倭は、日弥呼の時代から朝鮮半島南岸を支配し
倭の五王の時代には、任那のみならず、百済や新羅まで
臣従させ、高句麗とも戦ったことを確認した。
倭の朝鮮半島におけるプレゼンスは
雄略天皇の時がピークで、その後低下し、任那は
百済と新羅によってその領土が蚕食され、562年に
新羅によって滅ぼされる。
日本人の遺伝子 は 朝鮮人とは全く
異るのです。
その後も倭に対する形式的な調は続いたが
663年の白村江の戦に敗れ、半島利権の回復はおろか
自国の存続までが危うくなった。
古代日本の半島経営失敗の原因は何か。
もちろん、雄略天皇以降の政治的混乱も原因の一つに
挙げてもよいが、それ以上に致命的であったのは
日本の外交には遠交近攻策が欠如していたことだ。
もしも、日本が高句麗と結んで、間にある百済と新羅を
挟撃し、両者が滅びた後、今度は、唐と結んで、間にある
高句麗を挟撃して、滅ぼせば、日本は、朝鮮半島の大半
を支配できたであろう。
遠交近攻策を取らずに、文化的な近さから、百済との
善隣外交に終始したことが、日本の失敗の原因であった。
対照的に、遠交近攻策で成功したのは、新羅である。
新羅は、唐と結んで、間にあった高句麗と百済を挟撃して
滅ぼし、唐と国境を接するようになると、倭と和解して背後の脅威をなくし、唐の半島支配に抵抗した。
秦が遠交近攻政策で支那を統一して以来、この戦略は
外交の世界では常識のはずなのだが、日本は、古代から
現在に至るまで、この発想がない。