任那(みまな)日本府とは
『日本書紀』に記されている、朝鮮半島南部に存在したと
される倭の統治機関である。
南朝鮮学界は、古代の朝鮮半島に倭の領土があった
ことを否定しているが・・・・。
文献的資料と考古学的事実は、日弥呼の時代から倭の
五王の時代にかけて、朝鮮半島南岸が倭の統治下に
あったことを示しており、その後、562年に消滅するまで
倭が朝鮮半島南部に拠点を持っていたことは史実として
受け取ることができる。
1 : 任那日本府に関する日韓の見解の相違
『日本書紀』に登場する任那日本府をどう解釈するかは
日姦の歴史解釈上の対立点の一つである。
従来、南朝鮮側は
任那日本府を、その存在自体を完全に否定したり
大宰府の別称と推定したりしていたが、近年では
金泰植のように、朝鮮半島の安羅にあったことを認めた
上で、任那日本府を安羅に臣従する倭人官僚がいた
外務官署とみなし、「安羅倭臣館」と呼ぶべきだと主張する
学者も出てきている。
‘任那日本府’は6世紀当時の用語でもなく
間違った先入観を呼び起す用語であるため
より事実に近い安羅倭臣館という用語に交替
するのが妥当である。
そして安羅倭臣館は、540年代に加耶連盟が
新羅と百済の服属の圧力を受けていた時期に
加耶連盟の第二人者であった安羅国が自身の
王廷に倭系官僚を迎え入れ、倭国との対外関係
を主導することで、安羅を中心にした連盟体制を
図るために運営した外務官署のような性格の機構
であった。
しかし550年を前後して、この機構は相互間の
同盟関係を強固にしていた百済と倭王権の不信任
の中で解体された。
「日本」という国号の成立は7世紀であるから、6世紀に
「任那日本府」が、このような漢字表記で記されていな
かったことは確かである。
『日本書紀』では
倭も日本も、ともに「やまと」と訓まれており、国号の変更
に伴い、「倭」が「日本」に書き換えられている。
だから、『釈日本紀』が注釈するように
任那日本府(みまなのやまとのみこともち)は、「任那之倭宰」
と記すのが適切である。
しかしながら
日姦で問題になっていることは、任那日本府が当時どの
ように呼ばれていたかではなくて、どのような役割を
果たしていたかである。
はたして、それは、金泰植が言うように、安羅に臣従する
倭人官僚がいた外務官署にすぎなかったのか。
『日本書紀』には
以下のように「在安羅諸倭臣」という表現があるが、どの
ような意味で使われているかは、前後の文脈から判断し
なければならない。
百済は、部杆率汶斯干奴(かほうかんそちもんしかんぬ)を派遣して、天皇に上表文を奉り、申し上げた
「百済王で、天皇の臣である、私、明[聖明王]
および安羅にいる倭の諸臣ら、任那諸国の
旱岐(かんき)らが奏上いたします。
新羅は無道で、天皇を恐れておりません。
高句麗と共謀して
日本の海外にある北の宮家を破滅させようとし
ています。
私どもは協議によって内臣(うちのおみ)らを
天皇のもとに派遣して、援軍を請い、新羅を
征討しようとしました。
そうして、天皇の遣わされた内臣は、軍兵を
率いて六月に到達し、私ども、天皇の臣は
たいそう喜びました。…」
この欽明天皇十五年(554年)上表文では、百済の聖明王は
自らを天皇の「臣」と表現しており、それゆえ、その後に
登場する「在安羅諸倭臣」も、安羅国ではなくて
日本の天皇に臣従している臣と解釈するべきである。
もしそうでないならば(金泰植のように考えるのなら)
任那諸国の国王である旱岐を先に挙げ、続いてそれよりも
格下の在安羅諸倭臣を挙げるはずだが
そうなっていないということは、在安羅諸倭臣を任那諸国
の国王よりも上に位置付けているということである。
また引用されている上表文に
「海北彌移居」とあることに注意したい。
「彌移居」は「みやけ」と読み、天皇の直轄地である屯倉を
意味する。
「海北」は日本から見て、海を隔てて北にあるという意味である。
上表文は
新羅が高句麗と共謀して朝鮮半島南部にある
日本の天皇の直轄地を滅ぼそうとしていると言うのである。
海外に日本の天皇の直轄地があるのなら、当然天皇の
代官が現地にいるはずだ。
これより前の欽明天皇五年(544年)の上表文では
百済は、安羅に存在した日本府に任那が従属していること
を明言している。
そもそも任那は安羅を兄として、必ずその意向には
従います。
安羅人は日本府を天として、必ずその意向には
従います。
注:百済本記には、「安羅を父とし、日本府を本(もと)とする」とある。
もちろん
『日本書紀』や『百済本記』に書かれていることがそのま
ま史実だとは限らないが、少なくとも、『日本書紀』を根拠に
任那日本府が、安羅に臣従する倭人官僚がいた外務官署
にすぎないと主張することは、誤読であると結論付ける
ことができる。
任那日本府は
「みまなのやまとのみこともち」と訓まれていたのだが
「みこともち」は「御言持ち」という意味であり、その役割は
天皇の言葉を現地に伝達することだったと考えることができる。
大和政権が任那を任那日本府を通じて支配していた
とするならば、その任那支配は、いつ、どのようにして
始まったのかが、次に問題となる。
『日本書紀』が、倭による朝鮮半島統治の根拠としている
のは、神功皇后が行ったとされる三韓征伐である。
『日本書紀』は、『三国志』魏書東夷伝倭人条を引用する
ことで、神功皇后が日弥呼であることを示唆している。
そこで、日弥呼の時代に三韓征伐に相当する朝鮮半島へ
の軍事的活動があったのかどうかを次に検討しよう。