インドとパキスタン、両国は独立から現在
まで対立を続けている。
最大の理由は宗教間の対立だが、中東などと同様に
宗主国イギリスが民族対立や宗教対立が起きやすくして
強国にならないようにしたのも大きな理由の一つだ。
では具体的にどう対立が起こり、現在まで続いているのか
その経緯を見ていきたい。
イギリスがインドを植民地化
イギリスによって資産が搾取され、大飢饉が発生
15世紀末にポルトガル、オランダが
インド亜大陸(インド、パキスタン、バングラデシュなどがある地域)に進出、17世紀後半にはイギリス・フランスが植民地を巡って
争い、1757年プラッシーの戦いでイギリスが勝ち
東インド会社を通じて植民地化に成功する。
東インド会社は「会社」といっても今の会社とは異なり
兵器や兵隊を備えた軍隊のようなものである。
そして武力によって植民地化されたインドは、イギリス向けの
綿花や茶、支那向けのアヘンなどの生産を強制され
インドの綿織物産業は破壊、自分たちが食べる穀物も
買わなければならない状況に追い込まれる。
さらに、地主に土地の所有権を認める代わりに、「地税」を
徴収、インドから資産を吸い上げた。
こうした状況下で、たびたび大飢饉が発生し、1877年には
大飢饉で約500万人が餓死したと言われている。
一方、こうした植民地支配に不満を持った住民が何度も
反乱を起こし、1857年にはインド人兵士が大反乱を起こした。
この反乱はイギリスによって制圧されるが、これをきっかけに
インドの支配が東インド会社からイギリスの直接統治に
変わった。
イギリスの内閣には「インド担当国務大臣」が設けられ、インドにはイギリス国王の代理人であるインド総督が派遣された。
これによって、植民地支配は完成された。
イギリス、宗教間の対立を
利用して支配
ヒンズー教徒を中心とする「インド国民会議」
イスラム教徒を中心とする「全インド・ムスリム連盟」を結成
インド亜大陸にはインド以外に数多くの藩王国が存在したが
重要な場所はイギリスが直接統治し、藩王国はそのまま
藩王に支配させる分割統治を行った。
一方、イギリスに対してインド国民の不満が向かないように
ヒンズー教とイスラム教の信者が互いに対立するよう仕向けた。
そもそも、ヒンズー教とイスラム教は考え方が大きく異なる。
ヒンズー教は多神教で、偶像崇拝を行い、牛は神聖な動物で
牛肉を食べることは禁止されている。
一方、イスラム教は一神教で、偶像も禁止、牛肉は食べるが
豚肉は不浄な動物だとして食べることを禁止されている。
そして、急増する反英勢力への緩和策として、1885年に
インドの知識人・中産階級を集めて、穏健的な団体
「インド国民会議」をインド総督の承認のもと設立した。
しかし、元々4日間だけの活動予定だったが
インド国民会議は反英運動へと展開した。これに対し
イギリスはヒンズー教が中心的であったインド国民会議に
対抗する組織を作ろうと、1906年に全インド・ムスリム連盟を
結成した。
だが、この連盟も次第に反英に変わり、自治政府の樹立運動へ
と展開していく。
インドとパキスタンに
分かれて独立
ガンディー率いる「インド国民会議」は統一国家を目指したが
対立する「全インド・ムスリム連盟」はイスラム教徒の国を
作ることで決議
第一次世界大戦後
インド国民会議に加わったマハトマ・ガンディーを中心に非暴力
の抵抗運動を進め、ガンディーはヒンズー教徒・イスラム教徒
で一つの国家として独立させようとした。
一方、全インド・ムスリム連盟は1940年にイスラム教徒の国を
作ることで決議し、1947年、インドとパキスタンに分かれて
独立した。
だが、地域によってはヒンズー教徒、イスラム教徒が混在
したままであった。
こうした状況に対し、相互理解を深めようとしたガンディーは
ヒンズー教過激派から反感を買い暗殺されてしまう。
ヒンズー教徒はインドへ、イスラム教徒はパキスタンへ
それぞれ迫害を逃れて移動しようとするが、その間に各地で
衝突が起こり、約100万人が亡くなったと言われている。
これによってさらに対立は深まることになる。
第一次インド・パキスタン戦争
が勃発
イギリスが国境を定めず、藩王と住民で宗教が異なる
カシミール地方で対立が続く
インドの北西部にあるカシミール地方は、藩王(マハラジャ)
がヒンズー教徒、住民の77%がイスラム教徒という複雑な
状況にあったが、藩王はインドへの所属を決めた。
だが、パキスタンは自国の領土だと主張し、1947年に義勇軍を
カシミールに送り込む。
これに対し、藩王はインドに助けを求め、インドも軍を送り
カシミールで両軍が衝突することになった。
これが第一次インド・パキスタン戦争である。
この戦争は1949年国連が仲介し、停戦となったが、この時
カシミール地方の3分の2をインド、3分の1をパキスタンが
支配するようになった。
アメリカや支那が介入
支那・インド国境戦争が勃発、インドの核開発のきっかけに
一方、冷戦の中で中立の立場をとっていたインドに不満を
抱いたアメリカは、パキスタンに近寄り、1954年には
パキスタンと相互防衛援助協定を結ぶ。
また、1959年にはチベットで大規模な反乱が起き
ダライ・ラマ14世をインドに亡命させたことに対して
支那が激怒し、1962年には支那がカシミール地方のチベット
と隣接したラダク地域を占領する。
その後、支那・インド国境戦争にまで発展、支那の勝利
に終わった。
侵攻を始めた時はちょうどキューバ危機が起こっている最中
であり、大国が介入してこないタイミングを狙ったものだと
思われる。
この後、アメリカはソ連・支那に対抗するためインドに
軍事援助することになり、支那はパキスタンを援助することに
なった。
結果的に、この支・印戦争はインドの核開発のきっかけに
なったと言われている(1974年にインドは核保有を宣言)。
東パキスタンがバングラデシュ
として独立
経済格差が激しく、民族も異なっていた東西パキスタンが
第三次印パ戦争をきっかけに分離
1965年には支那の侵攻に影響を受けたパキスタンが
停戦ラインを越え、第二次印パ戦争が勃発し
アメリカやイギリスの停戦圧力などで停戦する。
一方、パキスタンは東西で経済格差が激しく、西はアーリア系
パンジャブ人(イラン系に近い)、東はモンゴル系ベンガル人と
民族も異なっていた。
こうした状況で、東パキスタンでは、西パキスタンの中央政府
の支配に対して自治権獲得運動が激化、1969年にパキスタン
中央政府軍が鎮圧に出動し、東パキスタンと武力衝突。
東パキスタンはインドの援助を得て全面戦争(第三次印パ戦争)に発展し、パキスタン中央政府軍は完敗、1971年に東パキスタンがバングラデシュとして独立する。
インドとパキスタンが核を保有
緊張が高まる
インドは支那に対抗するために核を保有
パキスタンはインドに対抗するため核を保有
その後もカシミール地方を中心に対立は続き
1974年と1998年にはインドが核実験を行い、パキスタンも
支那の支援を受けて1998年に核実験を行うなど、緊張は
高まり続けた。
1980年代には、インドでヒンズー至上主義が台頭し
ナショナリズムを掲げたインド人民党(BJP)が1998年に
政権を獲得している。
さらに、パキスタンがカシミールの反乱勢力を支援したことで
その支援を受けようと、ラシュカレトイバやジェイシモハメド
などのイスラムテロ組織がカシミールへと流れ込む。
その後、こうしたイスラム過激派がカシミールでの
テロの主役になっていく。
さらに、非常に厄介なことに
こうした過激派組織に集まってきたのは、カシミールに
おけるイスラム教徒の自治政府確立という大義に共感を
抱く人物ではなく、残虐性や宗教的狂信主義に駆られた
若者たちだった。こうして徐々に現地住民からの支持も
失われていく。
しかし、核保有によって自信をつけたパキスタンは
1999年に再びインド側に侵攻し、印パ間の衝突(カルギル紛争)
が発生。
また、パキスタンでは何度もクーデターが起きるなど
内政も不安定な状態である。2001年にはイスラム過激派が
インド国会議事堂を襲撃、2002年にもイスラム過激派が
カシミール地方で停戦を越えてインド側を襲撃、核戦争の
瀬戸際までいった。
この時、インドとパキスタンに駐在していた外国人は退避勧告
を受けて国外に逃れている(日本の外務省も日本人に
退避勧告を出した)。
そして、この頃からアルカイダがパキスタンに逃れ
カシミール地方の過激派組織に合流している。
オサマ・ビンラディンが殺害されたのもパキスタンである。
衝突は未だに相次いでいるが
関係改善に向けた動きも
2015年12月には12年ぶりにインドのモディ首相が
パキスタンを電撃訪問
その後は停戦ラインを行き来できる場所もでき、関係が
改善したかに見えた。
しかし、2008年に約170名が殺害されたムンバイ・テロ事件が
起き、パキスタン政府はテロリスト集団への支援を否定したが
インドとパキスタンの緊張関係を再び悪化させることとなった。
また、2006年にアメリカがインドに原子力技術を供与する
協定を結ぶ一方で、パキスタンはウラン型原爆だけではなく
プルトニウム型原爆の開発を進めていると言われている。
だが、関係改善に向けた機運も高まっている。
2015年12月、12年ぶりにインドのモディ首相がパキスタンを
訪問し、シャリフ首相と会談した。
また両国の国家安全保障担当者がタイのバンコクで
会談するなど、武力衝突はありながらも対話は続けている。
モディ首相はヒンズー至上主義者で就任当初は関係悪化が
懸念されたが、今後は改善していくかもしれない。