文在寅は7日夜、青瓦台(大統領府)に
トランプ米大統領夫妻らを招いて夕食会を開いたニダ。
夕食会には両国から約120人が出席したニダ。
旧日本軍の慰安婦被害者、李容洙も招待され
トランプ氏と抱き合ったり、握手をするなど
して、あいさつを交わしたニダw。
バレた時が楽しみだねーw
罠に嵌められたトランプ大統領は
自分が利用された事を知ったらw・・・・
<ご参考・連行された西暦と年齢>
同女の証言毎の連行された西暦と年齢をまとめると
以下です。
14歳~16歳とばらばらですが、まず、大前提として知って
おかなければならないのは
朝鮮では、今でも満年齢より数え年を使用するのが
一般的だと言うことです。
年齢を満年齢で言うか、数え年で言うかで最大2歳の差が
出てきます。
数え年とは、生まれた時に1歳で、正月毎に+1する数え方。
同女の場合、12月13日生まれなので、12月13日~31日は
「数え年=満年齢+1」になり
それ以外は「数え年=満年齢+2」になります。
1928年生まれの同女の満年齢と数え年は以下の
通りとなります。
1942.1.1 ・・・ 満年齢13歳 数え年15歳
1942.12.13 ・・・ 満年齢14歳 数え年15歳
1943.1.1 ・・・ 満年齢14歳 数え年16歳
1943.12.13 ・・・ 満年齢15歳 数え年16歳
1944.1.1 ・・・ 満年齢15歳 数え年17歳
1944.12.13 ・・・ 満年齢16歳 数え年17歳
1945.1.1 ・・・ 満年齢16歳 数え年18歳
1945.12.13 ・・・ 満年齢17歳 数え年18歳
1946.1.1 ・・・ 満年齢17歳 数え年19歳
1946.12.13 ・・・ 満年齢18歳 数え年19歳
証言 | 1928年12月生 まれの連行時の 年齢 | |||
連行された年 | 連行された年齢 | |||
① | 1993.7 破られた沈黙 | 1944年夏 | 16歳 | 満15歳、数え17歳 ※不一致 |
② | 1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち | 1944年秋 | 満16歳 | 満15歳、数え17歳 ※不一致 |
③ | 1996.8 私たちと戦争責任 | 1943年10月 | 14歳 | 満14歳、数え16歳 |
④ | 1998.8 英文中国日報 | 1944年 | 数え年16歳 | 満15歳、数え17歳 ※不一致 |
⑤ | 2005.4 証言集会(同志社) | 1944年 | 韓国の年齢で16歳 | 満15歳、数え17歳 ※不一致 |
⑥ | 2007.2 JANJAN | 記載なし | 15歳 | ****** |
⑦ | 2007.3 フランス ルモドン紙 | 1944年秋 | 14歳 | 満15歳、数え17歳 ※不一致 |
⑧ | 2007.8 戦争と性 | 夏 (※西暦の記載は無いが、1946年春に帰郷して母が「私の娘は3年前に死んだ」と言っているので、おそらく1943年) | 15歳 | ****** |
つまり、連行された西暦は
1943年か1944年で、季節は夏か秋。
また、連行された年齢から算出される
西暦も1943年か1944年になります。
※14歳を満年齢だとすると、1943年に連行
(数え年だと1941年に連行されたことになる)
※15歳を満年齢だとすると、1944年に連行
(数え年だと1942年に連行されたことになる)
※16歳を数え年だとすると、1943年に連行
(満年齢と明記されているものもあるが
1945年に連行されたことになり、あり得ない)
※1945年(1945 ねん)は
西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
昭和20年。
転換点となった年である。
8月15日
なお、連行された年と年齢が一致しているのは
③の「私たちと戦争責任」のみであり、西暦の証言は
「1944年」が圧倒的に多いものの、年齢から逆算した
西暦は「1943年」が圧倒的に多いことになります。
ちなみに、同女が故郷に帰った年は明記されていない
ものがほとんどなのですが、曖昧なものも拾い集めてみると
以下の表の通りとなります。
証言 | 備考 | |||
帰ってきた年 | 帰ってきた年齢 | |||
① | 1993.7 破られた沈黙 | 明記なし (おそらく、1946年or1947年の12月13日) (注1) | 19歳 | |
② | 1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち | 麦が青い芽を出す頃 (西暦不明) | 記載なし | |
⑧ | 2007.8 戦争と性
| 1946年春 (注2) | 17歳 |
(注1)同女が故郷に帰った時の
母の「私の娘は3年前に死んでしまっていない」という発言
及び、その時、同女の法要を行っていて
誕生日(12月13日)に法要をしていたと記述がある。
同書では、1944年夏に連行されたと証言しているので
1946年12月に帰ったとすると約2年4ヶ月で3年には足らず
1947年12月だとすると約3年4ヵ月になる。
また、帰ってきた年齢は19歳と明記されており、
れが数え年なら1946年になる。(満年齢なら1947年)
(注2)こちらは、帰ってきた年が明記されているが
連行された年は明記されていない。
「破られた沈黙」と同じく、「私の娘は3年前の夜に死んだ」
という発言があるので、そこから逆算すると、連行された年は
1943年になる。
どうやら
1946年に故郷に帰ってきたというのが正しそうです。
なお、同女の証言では
「同女の法事をしている時に帰ってきた」という内容が
多いのですが、法事が誕生日に行われていたと
すれば12月に帰ってきたことになり
②、⑧の春に帰ってきたという証言と矛盾します。
おそらく、法事の際に帰ってきたというのは
物語をドラマティックなものにする為の演出でしょう。
ちなみに、②、⑧では、法事の話は出てきません。
◆◆◆ 李容洙(イ・ヨンス) ◆◆◆
【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
1928.12.13生。朝鮮の大邱(テグ)の金持ちではないが、ご飯を
豊かに食べていける家庭に生まれる。
16歳の時に、日本人の男に台湾へ連れ去られ
以降、慰安婦を強いられる。
(参考:「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦ち」)
2007.2.15米国下院外務委員会アジア太平洋環境小委の
「慰安婦聴聞会」にて金君子、ジャン・ラフ・オハーンらと
共に証言を行う。
【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】
船で台湾へ向かっている時、軍人達に繰り返し強姦される。
(参考:「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦ち」)
【考察】
同女の証言には全く信憑性がありません。
それは
「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」と
「証言集会(同志社大学)」の連行時の内容を比べると
明白です。
(以下、「証言」・・・「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」「同志社」・・・「証言集会(同志社大学)」)
友達と川辺で貝を採っていた時に、見知らぬ男2人が
見ていたのは同じなのですが、その後、連行されるのが
○「証言」・・・それから何日かたったある日の明け方
○「同志社」・・・その後、1ヶ月か2ヶ月が経った頃。
ある日の夜同女の家の窓を叩いたのが
○「証言」・・・一緒に貝採りをしていた友達
○「同志社」・・・軍人に首の方に何かを突きつけられた
ある女性
その後
○「証言」・・・友達の招きに従い、母には何も言わないで
こっそり家を出て友達の後に付いて行く
○「同志社」・・・怖くなって居間で座っていたところ
その女性と軍人が入ってきて、口を塞がれ
背中に何かを突きつけられて連れて行かれる
「証言」では、その後、友達に付いて行くと川のほとりで
日本人の男の人(※国民服に戦闘帽をかぶっていた)が
立っていて、ワンピースと革靴をもらい、
もう他のことは考えもしないで即座につ
いて行くことにしました。」
となっています。
また、その男が慰安所の経営者でした。
「証言」と「同志社」では、連行された時の話が全く別物に
なっており、物に目が眩んで人さらいについて行ったのが
軍人に無理やり拉致されたことに変更されています。
しかも、「同志社」では、日本軍人の理不尽な暴力もかなり
追加されています。
今回は、連行時のみにスポットを当てて比較しましたが
まあヒドイものです。
さらには「同志社」では
連行された時に母が側にいなかったことを
恨んでいて、証言集会の20日前に、母がいなかった理由を
「赤ちゃんが泣いていたので、部屋から離れていた」
と弟から初めて聞いたと語っているのですから開いた口が
塞がりません。
(※父のもとに行っていたと思っていたら、赤ちゃんを
あやしていたということだったので、誤解による恨みが
晴れたという話)
「証言」では
「私は足音をしのばせてそろそろとプンスンの後について
行きました。
母には何も言わないで、そのままプンスンの後について
行きました」
と記述されており、自ら母にばれないように出て行っています。
このような、観衆を取り込む為のテクニックを駆使している所を
見ると、「プロ証言者」と言ってもいいかも知れません。
トランプ大統領
「シンゾー 慰安婦ってなんだ?」
安倍総理
「朝鮮戦争時の売春婦だよ
日本軍に拉致されたってのはホラだよw」
トランプ大統領
「オーマイガー!
シット!グック!」