この平和国家日本が「戦前」にあると何十年書き続けた
新聞各紙は…
終戦記念日の新聞を読むと、毎年、あることを思う。
一体、「いつ戦争が始まるのか」ということである。
今年もそうだった。
〈嫌な流れ止めねば あの時代と似た空気〉(毎日)
〈誰が戦争を止めるのか 終戦の日に考える〉(東京)
〈72年目の8月15日 色あせぬ歴史の教訓〉(朝日)
今年も新聞は、盛んに「戦争の危険性」
を説いてくれた。
確かに弾道ミサイル発射実験によって米国への挑発を
止(や)めず、一触即発の状態を続ける北朝鮮や
尖閣諸島への領土的野心を剥(む)き出しに領海侵入を
くり返支那との間で、いつ日本が危機的状況に追い込まれる
か分からない。
だが、新聞が懸念するのは、そんな“世界の脅威”
北朝鮮や支那のことではない。
あくまで戦争を始めるのは
この日本なのである。
朝日の社説(8月15日付)によれば
〈歴史に通じた人々から「戦前と似た空気」を指摘する声が
相次ぐ。
安保法制や「共謀罪」法が象徴のように言われるが
それだけではない。
もっと奥底にあるもの、いきすぎた自国第一主義
他国や他民族を蔑視する言動
「個」よりも「公の秩序」を優先すべきだという考え、権力が
設定した国益や価値観に異を唱えることを許さない風潮など
危うさが社会を覆う〉とのことだ。
新聞が主張するのは
この平和国家日本が「戦前」にあると
いうことである。
しかし、何十年も新聞はそう書き続けたのに、日本は戦争を
起こさなかった。
〈「新しい戦前始まった」と靖国公式参拝で社党委員長〉
〈首相の靖国神社公式参拝に「今後」を危ぶむ声も〉
〈各国の反応は? 内外に広がる警戒・懸念〉
これは、30年以上も前の昭和60年
当時の中曽根康弘首相の靖国公式参拝が話題になった
ときの朝日の紙面である。
近づく戦争の足音。
戦争をいかに防ぐか。
平和を蔑(ないがし)ろにする政府とどう闘うか-
私たちは毎年、終戦記念日にそんな記事を読まされてきた。
だが、どう不安を煽(あお)ろうと、日本は揺るぎなく平和の
道を歩んできた。
そして平和を脅かすようになったのは、新聞が“地上の楽園”
と囃(はや)し、“悠久の大国”と讃(たた)えてきた
北朝鮮や支那の方だった。
それでも新聞にとっての“悪”は日本だった。
なぜだろうか。
「私たちは、戦争をしたい人たちとペンで闘っている」。
そこには新聞特有のそんな自己陶酔がある。
それは、刻々と変わる内外の情勢に対して、平和を
守るための「現実的対応」を懸命にとる
現実的平和主義者たちを勝手に
「戦争に向かう人たち」と決めつける傲慢さに支えられた
ものにほかならない。
現実を見ようとせず、自己陶酔した視野狭窄(きょうさく)の
中にいる新聞のことを考えさせてくれる日-
それが終戦記念日である。
たとえ彼らの視点から欠落してはいても
日本の礎となった戦没者たちの無念だけは
忘れまい。
http://www.sankei.com/column/news/170827/c
lm1708270004-n1.html
どこぞの予言者とまったく一緒だな(´・ω・`)
そう言えば、戦争法案とやらが可決した
のに一向に戦争始 まらないな。
(・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン