ニューヨークに住んでいて、外国人との日常会話中に第二次世界大戦や天皇に
就いての話題が急に出て来ると、一瞬背筋が冷やっとし、言葉を慎重に
選ぶ様に為る。
この「背筋が寒く為る感」は、恐らく日本に住んでいる日本人には中々判らない
感覚だと思うが、「あぁ、俺は『敗戦国国民』だったのだ」と云う事実を「日常生活」
の中で鋭く突き付けられると云う、ゾクッと、そしてチクリとする「一瞬」なので有る
「戦後」はまだ終わって居ない・・・・・。
そんなニューヨークでも今月から公開されている、第二次世界大戦直後の日本
と昭和天皇の「戦争責任の有無」を描いた映画
「Emperor(邦題:『終戦のエンペラー』)」を観て来た。
この作品は2013年度アメリカ制作の映画で、監督は「真珠の首飾りの少女」の
英国人ピーター・ウェバー。
主演はダグラス・マッカーサー役にトミー・リー・ジョーンズ、天皇の戦争責任を
調査するフェラーズ准将にマシュー・フォックス、フェラーズの嘗ての日本人の
恋人あや役には、「ノルウェイの森」から抜擢された初音映莉子、そして
東条英機に火野正平、近衛文麿には中村雅俊、木戸幸一役に伊武雅刀
その他西田敏行や夏八木勲、片岡孝太郎や桃井かおり等の個性派の
日本人俳優が揃う。
そして映画は、広島・長崎への原爆投下のシーンから始まり
(原爆を「人類史上最悪の兵器」と呼ぶナレーションには
「米国映画なのに、大丈夫か?」と吃驚させられるが、この驚愕は本編の
エンド・ロール迄持続するのだ!)
その後、連合国軍最高司令官マッカーサーがフェラーズを伴って来日
昭和天皇に戦争責任が有るや否や、そしてその答えが否の場合は
「真の戦犯を探す事」をフェラーズに命ずる。
物語はサスペンス・タッチで進み、戦後日本の旧弊な政界・軍部・宮中への
捜査活動と、行方不明に為って居るフェラーズの元恋人あやの捜索が絡み
合い、日本への愛憎・理解と共に、最終的にフェラーズは「あや」と
「天皇の戦争責任」の行方を突き止める。
そしてフェラーズは、「『天皇の戦争責任の有無』に関する報告書」を
マッカーサーに提出するのだが…と云った話なのだが
岡本嗣郎原作の「陛下をお救いなさいまし 河井道とボナー・フェラーズ」を
基にする、この非常にデリケートな問題を取り上げた本作には、大きなテーマが
根底に流れる。
それは「Devotion-献身(或いは忠誠)」…その事は、あやのフェラーズに対する
台詞の中の
「If you understand "devotion" you will understand Japan」と云う
フレーズや、あやの叔父の鹿島がフェラーズに語る場面でも、「Devotion」と云う
言葉が頻繁に使われる事からも判るのだが、この「献身・忠誠」とは嘗て天皇に
対して日本国民がしていた「コト」に相違無い…が、本作の最後に描かれる
筆者が思わず涙してしまったシーンにも強く関わって居るのだ。
そのシーンとは、マッカーサーがフェラーズに拠る報告書を読んだ後、恐らくは
その処遇を決めかねた侭、昭和天皇(片岡孝太郎)との会見に臨む場面の事で
未だ40代半ばの天皇が機を制してマッカーサーに放つ言葉にこそ在る。
「私は、今回の戦争に関して『全責任』を負う。
他の何者にも責任は無い。今日貴方を訪ねたのは、私自身を貴方達の国の
採決に委ねる為だ。」
その言葉を聞いたマッカーサーは、心を打たれた様に瞬時に表情を変え
こう述べる。
「私は貴方を裁く為に、此処に呼んだのでは無い…
これからの日本を立ち直らせる為に、如何したら良いかを相談する為だ。
力を貸して頂きたい。」
9月27日、敗戦国の国王となった昭和天皇は、敵将マッカーサーに会うために
アメリカ大使館公邸を訪れた。
大使公邸の玄関で昭和天皇を出迎えたのは、マッカーサーではなく、わずか
2人の副官だけだった。
マッカーサーに会った昭和天皇は、こう語ったと伝えられている。
「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。
また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家
の行為に対しても直接に責任を負います。
自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは
自分には問題ではない。
構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」
この言葉に、マッカーサーは驚いた。
彼は、昭和天皇が命乞いにくるのだろうと考えていたからだ。
自らの命と引き換えに、自国民を救おうとした国王が、世界の歴史上
あっただろうか。
マッカーサーはこの時の感動を、『回想記』にこう記している。
「私は大きい感動にゆすぶられた。
死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして
明らかに、天皇に帰すべきではない責任までも引受けようとされた。
この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。
私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における
最高の紳士である、と思った」
この時マッカーサーは、次のように返答したという。
「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の
歴史にも前例のないことと思う。
私は陛下に感謝申したい。
占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも
これ総て陛下のお力添えである。
これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。
どうか、よろしくお願い致したい」(藤田侍従長による『侍従長の回想』)
マッカーサーは、立ち上がって昭和天皇の前へ進み、抱きつかんばかりに
天皇の手を握りしめて、「私は、初めて神の如き帝王を見た」と述べた。
わずか37分間の会見で、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は、まったく
変わっていた。
会見前は傲然とふん反りかえっているよな態度をとっていたマッカーサーが
会見後には昭和天皇のやや斜め後ろを歩くような敬虔で柔和な態度で
会場から出て来たという。
会見後、マッカーサーは予定を変更して、自ら昭和天皇を玄関まで見送った。
当時、ソ連やアメリカ本国は「天皇を処刑すべきだ」と主張していたが、昭和天皇
の態度に感動したマッカーサーは、これらの意見を退けて、自ら天皇助命の
先頭に立った。
マッカーサーの回顧にはこの記述が有るが、映画のこの場面が本当に史実で
有るのか、はたまた虚構なのかは、筆者には到底判らない…
「アメリカで制作された」本作に於いては「こう云う結論」に為っていて、そして
筆者は片岡孝太郎演じる若き昭和天皇がマッカーサーに対して述べた
「この台詞」を聞いた途端、周りにアメリカ人しか居ない映画館の片隅で
1人嗚咽したので有る。
その理由は、筆者が右翼だからでも何でも無くて、天皇が「全国民を救う為
ならば、自分が身代わりに為る」と、自らを処刑出来る「敵」の眼前で確りと
告げると云う、国家元首や政治家が当然するべき「献身」をあの年齢で
果たそうとしたからで、その「潔い『ジェントルマンズ・スピリット』こそが
今の日本に最も必要なのだ」と強く感じたからだった。
重ねて云うが、この作品が「アメリカ映画」として制作・完成された事は
驚くべき事で有る。
当然アメリカ国内での本作に関する批評は時に厳しく
「日本の侵略・残虐行為に対しての言及が無さ過ぎて、不公平で有る」と云った
声も聞こえる…だが、これは恐らくは制作に名を連ねている奈良橋陽子と
野村祐人の功績だろうが、日本人作家に拠る「日本贔屓的」原作が有った
としても、それをイギリス人監督に描かせた事に拠って、中立的で人間味と
寛容に溢れた、非常に美しい作品(例えば、列車の中でのあやとフェラーズの
シーン等)に仕上がったと筆者は思う。
こう云っては何だが、「パール・ハーバー」等とは異なり、アメリカ国内での
興行収入がそれ程見込め無いかも知れない内容の本作を、それでも作った
アメリカの制作・配給会社、プロデューサー、監督、俳優…それと反対に
絶対に」こんな映画は作れない、現代日本と日本の映画人
(奈良橋・野村両氏を除く)。
「定数是正」さえ満足に出来ない日本の政治家には望むらくもないが
マッカーサーが胸打たれた、自らの美徳で有ろうこの「潔い献身」と、それを
表現しタブーに挑む日本人の勇気は、一体何処に行ってしまったのだろう?
「終戦のエンペラー」…日本に住む日本人、特に若い人にこそ観て貰いたい
素晴らしい作品で有った。
かつて日本は美しかった
昭和天皇の全国巡幸
この戦争によって先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い
たいへん災厄を受けた。
この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。
しかし、よくよく考えた末、この際は全国を隈なく歩いて国民を慰め、励まし
また復興のために立ち上がらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。
こうして昭和天皇の全国ご巡幸が始まりました
最初に訪れたのは川崎の工場でした。このとき、米の報道陣は戦勝国の横暴
を隠そうともせず、陛下を小突き回し、引っ張りまわしもみくちゃにして
写真を撮りました。
しかし、昭和天皇は嫌な顔ひとつしませんでした。
警護していた日本人
「なんと雄々しいことだろうか。日本の再建のために、今、国民のために耐え
難きを耐えていられるのだ」
川崎の工場の士気は鼓舞され生産性はたいへん上がったといいます。
静岡県では巡幸反対を唱える共産党員が居ましたが、昭和天皇はまったく
気にせずお言葉をかけられたところ、その共産党員は陛下がお帰りの際に
お召車すれすれに顔を寄せて「天皇陛下万歳!」と叫んだといいます。
軽井沢の駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったとき、婚約者を戦争で亡くした
女性教師は「私は天皇陛下万歳といいません。そういう人間ではありません」と
言っていました。
しかし、お召し列車が目の前を通り、陛下が手を振っておられたとき
その女性教師は「天皇陛下万歳」を叫び号泣していたといいます。
昭和22年12月8日読売新聞 広島巡幸
80名のいたいけな”原爆孤児”たちがお待ちする市外の観光道路で車から降りられた陛下は日夜読経に明け暮らす谷口義春(15)君など4名の法衣の孤児たちをなぐさめられ”明るく勉強なさい”と励まされると子供たちは”ハイ”と元気に返事する。 |
昭和24年5月28日朝日新聞 原爆病のため面会謝絶中の永井隆博士を
長崎で見舞って
ベッドに伏したままの永井博士にお近づきになった。”どうです病気は?” ”ハイ、おかげさまで元気でおります” ”どうか早く回復することを祈っています、著書は読みました” このお言葉に感激した博士は”手の動く限り書き続けます”とお答えした。 |
永井博士「天皇は 神にまさねば私に 病いやせと じかにのたまふ」
「天皇陛下は巡礼ですね。
形は洋服をお召しになっていましても、大勢のおともがいても、陛下の御心は
わらじばきの巡礼、一人寂しいお姿の巡礼だと思いました」
鉄道沿線には人垣ができてお召し列車を見送る風景が各地でみられ
昭和天皇は「なるべく汽車の中での食事が無いように」と指示され、人が居れば
窓からお受けになりました。
昭和29年北海道では長万部、白老、旭川ではアイヌの伝統衣装に身を
固めた長老たちが日の丸を振りお出迎えしました。
長老のひとりの言葉。
「どういっていいか涙が出るほどのうれしさで、長生きしていればこそ、天皇
皇后さまにお会いできした。もういつ死んでも本望です」
昭和62年、沖縄訪問をひかえていましたが、昭和天皇は慢性膵炎で
倒れられました。その思いを陛下はこう詠まれました。
「思わざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」