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12月13日 日本軍が南京を陥落

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昭和12(1937)年12月13日(月)快晴
 ・・・ 南京陥落


Wik
1937年
- 日中戦争: 日本軍が南京を陥落させ、南京攻略戦が終結。
12月14日より6週間、残敵掃討作戦。
この一端として南京事件が発生したと言われている。

「南京大虐殺」とは?
193712月、日本軍は支那事変を終結させるため
南京へ侵攻、1213日にそこを占領しました。
いわゆる「南京大虐殺」とは、その占領から約6週間の間
数十万人単位の人間(市民や捕虜)が日本軍によって
南京で虐殺されたとする説です。

中国共産党が公式に述べてきたものとしてはその数
30万人。

中国にある南京大虐殺記念館の外壁には、大きな文字で
300,000」の数が、犠牲者数として掲げられており、中国の
子どもたちは、反日感情を植え付けられるために毎年そこへ
行かされています。




この「南京大虐殺」は、日本でも戦後
共産党員や共産主義シンパなどを中心に広められ
そののち多くの人々を巻き込み、教科書にまで書かれ
日本人の「自虐史観」の根底に置かれてきました。

しかし今日では
このような
30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺
また小規模の虐殺さえも、実際にはなかった
ことが
多くの証拠によって明らかになっています。


朝鮮兵たちによるある程度の犯罪はありました。
(朝鮮人の犯罪日本兵高麗棒子

南京での日本軍の活動をみてみると
非常に人道的なもののほうが多く目につきます。


南京戦の最中、南京市内にいた民間人は全員、南京市内に
設けられた「安全区」に集まっていました。

日本軍はそこを攻撃しなかったので、安全区の民間人らは
誰一人死にませんでした。


日本軍による南京占領が間近に迫ると
中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、中国人市民を殺して服を
奪い、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込みました


安全区に逃げ込んだ中国兵の中には、武器を隠し持ち
市街戦を準備する者、また安全区内で強姦や、略奪、殺人
などを行ない、それを日本兵のしわざに見せかけたり
被害者を脅迫して「日本兵が犯人」と言わせる反日工作の
者たちもいました。


日本軍は彼らを見つけ出すと、彼らのうち特に反抗的な
不法戦闘員数千名を処刑しました。

国際法では
こうした不法戦闘員便衣兵は「捕虜」としての扱いを
受けることができず、処刑されても致し方ないとされて
いるからです。


こうした不法戦闘員の処刑を
捕虜の虐殺」と伝えられた面もあります。


しかし日本軍は、一方で、市民や捕虜に対し多くの人道的
援助活動を行なっています。

その結果、日本軍占領下で飢えのために死ぬ南京市民は
一人もいなかったのです。


また日本軍の活動に感激して
そののち汪兆銘の親日政府軍に入った中国人捕虜たちも
多くいました。


南京において非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちでした。

軍服を脱ぎ捨てて民間人の中にまぎれこんだ中国兵たちは
裸でまぎれこむわけにはいきませんから、民間人の服を
奪うために民間人を殺しました

そうしたことをエスピーというアメリカ副領事その他の人々
目撃しています。
虐殺を行なったのは日本軍ではなく、中国兵たちだったのです。




入城する日本軍に拍手
昭和12(1937)年12月13日撮影
撮影者 アーサー・メンケン拍手で日本軍を迎える南京市民の模様
(日本軍入城を目の前にしながら)ちらほらと
飢えた支那人が拍手をしています。
第6師団第13連隊の入城を撮影
昭和12(1937)年12月19日撮影
朝日新聞、上野記者撮影

南京にて松島部隊の兵隊さんに可愛がられている
支那人の子供
昭和12(1937)年12月20日
「支那事変写真全集(中)」と朝日新聞
昭和12年12月25日より



南京陥落後旬日(じゅんじつ)にして、早くも
平和の曙光に恵まれた市中では、皇軍将士と
共に玩具をもてあそんでたわむれる
支那の子供達 


・・・無心にも戦場の跡に笑い興ずる幼童の姿に
春の歩みを聞くことが出来る
(12月20日撮影)


惨虐無道な支那兵に脅かされ
空と地に唸る砲弾に怯えていた避難民地区の
支那良民は、日本軍入城と共にホッと蘇生の思い
その上に食事は元より子供にはお菓子を
恵まれて大喜びの嬉しい涙で唯々「謝々」を
繰り返している。

日本兵によって看護される支那傷病兵

暴虐無頼な抗日支那軍ながら傷けば、皇軍が
敵をも隔てぬ同仁の慈悲に抱かれ
ここ南京外交部跡の野戦病院に我が衛生隊の
手厚い看護を受けつつ
明け暮れ悔恨と感謝の涙に咽(むせ)んで
いる支那傷病兵。(12月20日 林特派員撮影)


支那兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは
日本軍の入城を歓声をもって迎えた。
これは日本軍の入城式の日19371217日)
食糧やタバコの配給を受け、歓声をもって迎える南京市民ら。
市民がつけている日の丸の腕章は、民間人に化けた
支那兵ではないことを証明するために
日本軍が南京市民全員に配ったものである
(毎日版支那事変画報 1938.1.11発行)



昭和12(1937)年12月13日
南京事件が起きたとされる時期である
陥落以降に撮影された写真。

陥落当時には120名をこえる報道陣が南京に滞在
していました。(外国人記者達を含めて)
彼らの多くは戦争が終わり、南京が平和に復興する様子
を写真などによって撮影、記録しています。

本兵と人との支那心温まる交流も多数記録されて
いるのです。


ところが戦後
これらの写真を「朝日新聞」、「毎日新聞」「岩波書店
日教組」、「NHK」などのサヨク系団体や組織によって
封印されたのです。


戦争ですから戦死体があるのは当然ですが
虐殺とは全く無関係の写真を大虐殺の証拠として
(特に)朝日、毎日、岩波書店、日教組
(サヨク)系マスコミなどが大宣伝を行い
現在でも日本国民を洗脳しています。

南京の真実を報道しているのは唯一
産経新聞だけなのです



中共がいう南京大虐殺は、ねつ造でしかありませんが
南京には、実際に起こった虐殺事件があります。

これは史実です。
その南京虐殺事件は、以下の4つです。

1 第一次南京事件(大正2(1913)年)
  張勲軍が南京に乱入し、城内の民間人に対して虐殺、強姦、略奪
     を行った事件

2 第二次南京事件(昭和2(1927)年)
  国民党の国民軍が騙し討ちのような形態で南京に入り込み
     城内で虐殺、強姦、略奪を行った事件。

3 第三次南京事件(昭和12(1937)年)
  南京に陣取った国民党軍が、日本軍がやってくるからと城内で
     虐殺、強姦、略奪を行った事件。

4 第四次南京事件(昭和24(1949)年)
  中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、強姦、略奪
    行った事件。


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