Wikipedia参照
ベトナムは
「仏領インドシナ」としてフランス植民地だった時代には
トンキン、アンナン、コーチシナの3つに分かれていた。
ベトナム共和国(ベトナムきょうわこく、越:Việt Nam Cộng Hòa/越南共和)
1955年から1975年までベトナム南部に存在した国家である。
ベトナム国に続き、北緯17度線以南の地域を領土としていたことから
南ベトナムと略称される。
分断国家の一つであり、ベトナム民主共和国(北ベトナム)と対峙して
反共産主義的な立場をとっていた。
その為、西側諸国から援助・国交があった。
国家としての実体は1975年北ベトナムとの戦争に敗戦し消滅したが
現在では亡命政府である自由ベトナム臨時政府がアメリカ合衆国
で組織されている
第二次世界大戦後、日本軍の撤退とフランス植民地主義者のいない
権力の空白期にインドシナ共産党の統一戦線組織であった
ベトミンが山岳地帯から都市部に進撃しハノイ・クーデターによって
チャン・チョン・キム政権を突如・崩壊に追い込み強引に独立宣言を
発して政権樹立をした。
この動きに反対した宗主国フランスは
「コーチシナ共和国」(1946年-1948年)を建国したり
ベトナム臨時中央政府(1948年-1949年)を経て、バオ・ダイを国長に
担いで「ベトナム国」(1949年-1955年)を建国したり、親仏政権を
樹立したが、いずれも民衆からの支持が得られないまま失敗し
やがてベトミン政権は実質的に中ソの支援を受ける共産主義政権
となり、フランス駐留軍とのあいだで軍事衝突が起き
第一次インドシナ戦争(1946年-1954年)に突入した。
北ベトナムは、ソ連や成立間もない中華人民共和国からの軍事援助
を背景にフランス軍を追い込む事に成功した。
この戦争に敗退したフランスの実情を憂いたアメリカは
ドミノ理論(ある一国が共産化すれば、ドミノ倒しのように近隣諸国も
共産化する=東欧諸国、国共内戦後の毛沢東による中国
またのちの王制廃止後のラオス、・ポル・ポト政権下のカンボジアなど
のように)を提唱して、アジアにおいて共産主義の拡大を防ぐため
フランス撤退後のベトナムにおいて共産主義を嫌悪する
旧・阮朝の宮廷官史や民族主義者・自由主義者と計らい
1955年10月26日、アメリカの支援により、ゴ・ディン・ジェムが
南部で反対勢力(バオ・ダイ派)を一掃し
国名を「ベトナム共和国」(1955年-1975年)として政権を発足させた。
政治
その短い歴史の中で軍隊がクーデターを起こすことにより対立する
政権を転覆させ、国政を掌握させる事例が相次いだ。
これは長らくにわたる植民地圧政下で宗主国による愚民化政策が
有能な政治勢力の形成を阻んだり、独立運動・民族運動を弾圧
したことにも起因している。
大統領の任期は4年。
1966年に制憲議会で憲法を起草し、1967年に新憲法が公布
されている。
この憲法には、大統領は選挙によって選出すること、副大統領制と
上下両院を定めてある。
この憲法公布に基づき
さっそく同年9月に選挙を行い、新憲法公布者である
グエン・バン・チューとグエン・カオ・キがそれぞれ
大統領と副大統領就任している。
しかし、1971年の大統領選挙では、チュー大統領が有力対立候補
のキ副大統領やズオン・バン・ミン将軍を選挙から締め出し
圧倒的多数で信任されるなど、不正選挙も起こっている。
軍事
ベトナム国はフランス連合内の独立国になったが
(1)ベトナムが各国へ派遣する領事はフランスが任命
(2)フランス軍の駐屯を認め、有事にはベトナム軍をフランスが指揮
(3)政府顧問にはフランス人の任命を優先
(4)フランス人に対する裁判は仏越共同で裁く・・・など
依然としてフランスが大きな権限を握り続けていた。
第一次インドシナ戦争に
敗退したフランスの実情を憂いたアメリカが介入
基本的に西側寄りであり、アメリカと共に北ベトナムとの戦闘
カンボジア侵攻を行っている。
また、南ベトナム軍単独でラオスにも侵攻している
(アメリカ空軍が支援)。
北ベトナム(社会主義)と南ベトナム(資本主義)に分かれて
「こちらが本物のベトナム政府で、あっちはニセモノのいんちき政府」
だと争っていた典型的な分断国家だったが
1976年に南北統一(実際には北ベトナムによる併合)が実現して
南ベトナムは消滅した。
※南朝鮮は「南ベトナム」と
同じ運命をたどるらしい
ドイツ統一のやり方は無理だと
国際世論は判断した
現在進行形で行われてるのは
ベトナム統一路線。
政治家は、ほぼ粛清されるだろうwww。
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