死亡した慰安婦婆ぁの『抱腹絶倒の嘘証言』
が大量公開中。日本人への凄まじい悪意
キム・ウェハンとキム・タルソンが11日逝去
政府登録238人中、生存者は50人に
京畿道城南の「少女像守り」会員たちが
城南市庁前広場の少女像に献花し
前夜故人になった日本軍慰安婦被害者ハルモニの
キム・タルソンとキム・ウェハンを
追慕するプラカードを持っている
「辛かったこと、悲しかったこと、全てお忘れになって
安らかにお眠り下さい。後は私たちが解決しますから」。
日本軍慰安婦被害者ハルモニ(おばあさん)の
イ・ヨンス(87)がキム・タルソン(90)の遺影の前で
涙を流した。
遺影を手で撫でたイ氏は、菊の花一輪を遺影の前に
置いて独り言を言った。
「とうとう50人になりました…」。
日本軍慰安婦被害者のキム・タルソンが慶尚北道浦項の
ある療養院で生涯を終えた。
キム・ウェハン(81)も京畿道・広州(クァンジュ)のある
病院で目をとじた。
2人が亡くなり、政府に登録された慰安婦被害者238人中
の生存者は50人に減った。
キム・タルソンさんは1925年、浦項で3男3女の二番目
に生まれた。
18歳だった1943年、母親について浦項の
興海(フンヘ)市場でニシンを売っているときに
日本の警察に連れて行かれた。
ミャンマーで日本軍慰安婦として苦難に遭った。
解放以後、1945年に満身瘡痍になった身を
引きずるようにしてミャンマーから船に乗り釜山に到着した。
健康状態が悪くてすぐには故郷へ戻れず釜山で2年間
留まった。
1947年に浦項に戻ったが、1950年に朝鮮戦争が起きて
兄と弟を共に失った。
以後、キム・タルソンは野菜や魚を売りながら一人で
暮らし、49歳になった1974年に夫(当時50歳)に
出会い一緒に暮らした。1
996年に慰安婦被害者として登録した。2006年に結婚式を
挙げたが
「私は婚姻届を出す人にはなれない」として婚姻を
届けなかった。
慶尚北道・安東(アンドン)で生まれたキム・ウェハンは
1945年2月に日本の北海道に連れて行かれた。
わずか11歳の時だった。あらゆる苦難に遭い慰安婦生活
を耐えたキム・ウェハンさんは
徴用に行ってきた夫(89)と結婚した後、慶尚北道安東で暮らした。
4男1女をもうけたキム・ウェハンさんは1998年に夫の勧めで
政府に慰安婦被害者として登録した。
故人は生存慰安婦ハルモニの中で年齢が最も幼かった。
健康が悪化した故人は2012年にナヌムの家に住居を移した。
キム・ウェハンは目をとじる前の数カ月間病床で
日本政府の謝罪を待ちながら闘病してきたとナヌムの
家関係者は伝えた。
故人は生前「その人でなしどもは幼い子供を連れて行き
無慈悲に凌辱した。
あいつらは人間ではない。
幼かりし時に一緒に遊んだ友達は皆連れて行かれ
死んでしまい私一人だけが生きて帰ってきた」として
日本政府の公式謝罪を要求した。
人気ブログランキングへ1日1クリックで応援してね
1日1クリックで応援してね
↧
死亡した慰安婦婆ぁの『抱腹絶倒の嘘証言』が大量公開中。
↧