【来日】陛下と会談した「パラオ」とかいう国
⇒「靖国支持(代理参拝もしている)」
「日本語が一部公用語」「日系パラオ人は全人口の25%」
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パラオ大統領「世界に反戦示す」
来年の両陛下訪問で 来日中の
パラオのレメンゲサウ大統領(58)が
東京・内幸町の日本記者クラブで記者会見し
来年の戦後70年に当たって4月に予定されている
天皇、皇后両陛下による同国への慰霊訪問を
「大変光栄で、歴史的意義は大きい」
と歓迎する意向を示した。
皇居・御所で両陛下に会った大統領は
「来日した目的は
両陛下に正式な招待状を
渡すことだった」
と述べた上で「両陛下の訪問がかなえば
日本とパラオの緊密な関係を両国民が認識する機会に
なるとともに、全世界に対し戦争を繰り返さないとい
う強い意志を示すものにもなる」と意義を強調した。
http://www.47news.jp/CN/201412/CN2014121801002027.html
親日パラオとは永遠に仲良くしたいよNE♪
南国の島パラオに、ペリリューという小さな島がある。
南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル
全体で20平方キロの珊瑚礁の小島である。
ペリリュー島は
大東亜戦争末期にアメリカ軍と戦い
日本軍が玉砕した島です。
アメリカ軍との戦いは熾烈を極め、日本軍は
壮絶な玉砕戦の末
ほとんどの日本兵が亡くなられました。
パラオでの日本兵戦死者数は 10,695名。
パラオを守るため戦い、そして祖国「日本」を
思い、無念にも亡くなられていったのです。
パラオは、日本の「委任統治領」だった。
「委任統治領」というのは、当時あった
「国際連盟」によって
国際連盟規約第22条に基づいて
国際連盟の指定を受けた国が
一定の非独立地域を統治する制度です。
この制度は通常
白人諸国が有色人種諸国を統治する
というより植民地として収奪するのに
もちいられた制度です。
もともとのパラオが
白人の植民地となったのは
明治18(1885)年のことです。
このとき植民地支配したのがスペインです。
スペインの統治は過酷で
明治32(1899)年に、ドイツの植民地に
なるまでのわずか14年ほどの間に
パラオの人口は、約90%が失われています。
そして、もうこれ以上収奪するものがない
となったとき、スペインはわずか450万ドルで
パラオを含む
ミクロネシアの島々をドイツに売却します。
ドイツは、パラオの原住民を使い
ココナッツの栽培などをするけれど
現地人に対する教育や道路、流通の整備
産業の育成や法や行政諸制度の整備などは
まったく行っていません。
そしてドイツが、第一次世界大戦で負けた後
パリ講和会議において、国際連盟の結成と
ともに、パラオを含むミクロネシア地方一帯が
日本の委任統治領となったのです。
このパリ講和会議では、日本の牧野全権が
人種の平等を主張して
米英と激しく対立しています。
統治の委任を受けた日本は
さっそくパラオに南洋庁をおき、パラオに
学校や病院、道路などを建設し
街のインフラの整備を図ります。
パラオの学校には、若き日の中島敦も赴任し
現地人のための教科書作りを行っています。
この頃の日本の領土は
たいへんに広いものだったのだけれど
そんななかで、パラオの子供たちは
日本本土を含む全日本共通テストで
なんと第二位を獲得しています。
子供たちも、たいへんに優秀だったのです。
ところで、教育を受けるための学校、あるいは
医療を受けるための総合病院、あるいは
車も走れる道路などは、いったい
どのようにして造るのでしょうか。
まったくそういうものに、これまでずっと
接していなかった現地の人たちに
いきなり「道路を作れ」と言われても
できる相談ではありません。
このことは、あなたに、
(建設業関係のお仕事ではない人
であるという前提で)
いきなり第二東京タワーを作れ
といわれるに等しい。
では、どうやって造るか。
日本は、日本の歳費を用いて、パラオに
土木建築業者や教師、行政官吏を
派遣したのです。
「やってみて、やらせてみて
ほめてやらねば、人は動かじ」
です。
まずは日本人が、やってみせてお手本を示す。
そして、現地の人にも、すこしずつやってみてもらう。
そのうえで、成果があがったら、ともに喜びを
わかちあう。
当時、パラオにいた先住民は
わずか6500人足らずです。
そこに日本は、なんと2万5千人もの
人を派遣している。
そしてあらゆるインフラを整備したけれど
それはことごとく、日本の国費で賄われています。
日本統治時代のコロールの街並み
パラオは、日本の植民地だった、という人がいます。
このどこがいったい植民地なのでしょうか。
パラオ共和国では
日本統治時代に使用されていた
機具などは
すべてパラオ共和国の財産として
手付かずのまま放置されています。
台湾が投資している農業研究所でも、当時使用されていた
機具が錆びついてはいましたが、そのままの形で残っていました。
(そこでは建物の中に台湾の国旗が飾られていました)
≪パラオ・ペリリュー島の戦い≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1074.html
≪アンガウルの戦いと人種差別≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-890.html
≪ランボーは日本人だった!・・・舩坂弘軍曹物語≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-708.html
戦後、パラオは、米国の信託統治下に置かれます。
けれど、米国はパラオで、産業開発らしいことは
一切行わなかった。
いろいろな出来ごとのあと、ようやくパラオが晴れて
独立国となったのは、昭和56(1981)年のことです。
その独立国パラオの国旗が↓です。
パラオ共和国国旗
この国旗は、日本の国旗をモチーフにし、円が中央から
すこしずれているのは、日本にちょっぴり
遠慮したからなのだそうです。
戦後の政治、戦後の教育、戦後のメディアが、いかに
戦前の日本を貶めても、現地の人々には
当時の日本の仁政が、ちゃんとわかっている。
ペリリュー神社の境内には、太平洋艦隊総司令官
のチェスター・ニミッツの作として、文字列が彫られた
石碑(1994年に建立)がある。
「諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な
愛国心をもって戦いそして玉砕したかを伝えられよ
太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」
ウィキペディアより
売国政権
村山内閣(むらやまないかく)
村山富市が第81代内閣総理大臣に任命され
1994年(平成6年)6月30日から1995年(平成7年)8月8日まで
続いた日本の内閣である。
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